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2017年12月12日火曜日

『ロダン~カミーユと永遠のアトリエ』










ロダンの人間としての弱さと
赤裸々な人間感情

先日、渋谷Bunkamura・ルシネマで『ロダン~カミーユと永遠のアトリエ』という映画を観てきましたので、簡単にその印象を綴っていこうと思います。

ジャック・ドワイヨン監督はこの作品で、彫刻家ロダンその人の内面の葛藤や歴史に埋もれた真実を浮き彫りにしようとしたのでしょうか……。『考える人』や『カレーの市民』、『地獄の門』といった日本でも有名な芸術家の輝かしい記録のドラマなのかと思って見ると、大いに肩透かしを食うかもしれません。
それほどこの映画はロダンの人間としての弱さと赤裸々な人間感情を吐露した映画なのです。

反面、なるほど……という名言も随所に散りばめられています。たとえば、「創作物は自らの生命のすべてを吹き込んだものであり、完成した作品は自分の分身、はたまた実の子か、それ以上の存在だということ」。ちょっとだけ聞くと綺麗事を言ってると思われるかもしれませんが、しかしこれが偽らざる芸術家の心境であり本分なのでしょう。

でも芸術家という職業はつくづく孤独な職業だな…と思いますね…。印象的だったのが、ロダン、モネ、セザンヌとフランス画壇の巨匠たちが顔合わせをした時に、ロダンが当時まだ売れていなかったセザンヌに向かって『諦めちゃいけない。創作に注いだ過程が尊いんだから』との内容で励ますシーンがあります。セザンヌにとって誤解を受け続けながらも、自力で名声を勝ち取ったロダンから薫陶を受けることは何よりの励ましになったのでしょう。

一度作品の魅力を理解してもらえれば、多くの人々の賞賛を受け、注目の的となリますが、世の人々の共通の認識から外れた作品を発表すれば、たちまち社会悪のように偏見の目を向けられ、罵声を浴びせかけられることがしばしばです。
つまり、名だたる巨匠でも精魂注いで出来上がった作品が吉と出るか凶と出るかは誰も予知出来ないし、知る由もありません。ロダンの場合、これに相当するのがフランス文芸家協会から依頼されたバルザック像なのでした。



バルザック像の制作がもたらした
大きな転機と負の連鎖

かなりの自信を持って制作した彫像だったのですが、予想に反して批評家たちの散々な非難を浴びてしまいます。そして皮肉にも何種類か作ったバルザック像は、いずれも彼の創作スタイルからして、明らかに時代を先取りした前衛的で意欲的な作品ばかりだったのです。

意外なのはロダンともあろう人が、この事を契機にすっかり意気消沈してしまうことです。もっと反骨精神があっても……と思ったりするのですが、芸術家として、あるいは人間としての素直な問いかけやポリシーを傷つけられた代償は想像以上に大きく、何とも言えない挫折感や虚脱感が彼の心身を蝕むようになるのです。

負の連鎖なのか、この頃から愛人のカミーユとの関係や妻との関係もギクシャクするようになり、仕事の面でもさまざまな支障をきたすようになります。一度ねじれてしまった心の歪みは大きな傷となって、私生活にも大きな影を落としていくことなのでしょうか……。

どちらかというと一般的な鑑賞者側の立場と言うよりも作り手側の視点に立った映画なのでしょう。とにかく、一度モノ作りに没頭したことがある人なら、この微妙な心境は少なからず理解できるかもしれません。

全体的にはバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタをバックに、意味深なナレーションをプロローグやポイントに挿入するのは雰囲気があって大変いいと思います。しかし、それがストーリーを展開する上で効果を発揮しているかというと、決してそうでもない感じだし、複雑な人間関係の描写が意外に淡泊なのも、どうも心に響いてこない一因になっているように思います。

もう少し視点を絞って、シンプルな作りにしたら、受けとめ方はかなり変わったかもしれません。それがちょっと残念ですね……。但し、芸術家の心の孤独や苦悩を大きく掘り下げようとした試みは大いに評価できますし、これを踏み台に新たな人物像に光を当てるのもいいのかもしれません。


2017年7月27日木曜日

ジェシー・ネルソン I am Sam











「障害」というハンディが
背負う十字架

一人の人間が身体的、あるいは精神的に「障害」というハンディを背負うということはどういうことなのでしょうか?

ハンディがあるということは、当然生きる上で様々な壁が立ちはだかります。
通勤・通学、人とのコミュニケーションをとること、教育を受けること、就労や様々な手続きであったり……、影響は多方面に及びます。

それだけでなく、気持ちを伝えたくても伝わらない疎外感や周囲の人々の偏見の目や心ない言葉がもたらす心の傷……。それはおそらく健常者が考える想像をはるかに超えているのではないでしょうか?

周囲の温かな眼差しや気遣いがあってこそ、当事者の道が切り開かれていくのはもちろんなのでしょうけど……。それよりも大切なのは一人の人間として一切の偏見や変な同情心を捨てて心を開くことでしょうし、また、心の支えになっていく以外にないのかもしれません。

映画「I am Sam」の主人公サムも鑑定によると「精神年齢七歳」の知能の持ち主だったのでした。しかし、映画の中で知的障害者という特別な響きからくる重苦しさや哀しさは感じません。
なぜなら、同じアパートの住人でサムの娘の面倒をよく見てくれるアニーの存在や同じ知的障害を持つ仲間たちとの交流がサムにとっては何よりも心の拠り所であり、癒やしとして描かれているからなのです。

彼らはちょっと摩訶不思議なコミュニケーションを交わすのですが、まるで自分のことのように相手の気持ちを汲んだり、お互いを認め合っているのです。映画ではこのやりとりが丁寧に、そしてユーモラスに描かれています! それが何やら微笑ましく、見ているほうも次第に素直な気持ちになっていくのです。


一人娘ルーシーに注がれる
ピュアな愛情

この映画で最も美しい場面はサムが一人娘ルーシーに注ぐまっすぐな愛情でしょう。
言葉足らずでぶっきらぼうなのですが、サムが語りかける言葉や想いはルーシーにとってピュアな愛そのものだったのでした。 ルーシーもそのことを実感していたのでしょう。

ある日、「お父さんは普通のお父さんとなぜ違うの…」と素直に問いかけます。それに対してサムが「こんなお父さんでごめんよ」とすまなさそうに答えます。 見ていて何とも胸が詰まる場面ですね……。このとき、幼な子の心に初めて知的障害という概念を明確に認識した瞬間だったのでした。

一方でサムの人生は波乱の連続です。オープニングで妻のレベッカが産まれたばかりのルーシーを置き去りにして失踪したり、最愛の娘ルーシーの誕生日に近所の子を押し倒したことが発端で誤認逮捕されたり、それを契機にサムの人生の歯車が少しずつ狂いはじめます。

そして遂には親としての資格や養育能力がないという理由で、司法の力でルーシーとの親子の絆さえも引き裂かれてしまうことになります。それならば親として誰が本当にふさわしいのか?という、いつの時代においても難しい究極の質問が見る者に突きつけられるのです。それにしても検事や弁護士たちの答弁や質問が、あまりにも健常者の視点でしか物事を見ようとしないことに愕然とするではありませんか……。

それは、ルーシーを取り戻すために立ち上がってくれた女性弁護士のミシェル・ファイファーや里親としてルーシーを預かることになったローラ・ダーンも同じで、最初は「知的障害者」という色眼鏡で見たのでした。

しかし、サムと一人の人間として向き合う中で、結局人を引きつけるものは世間体や処世術ではなく、人間としての素直さやピュアな感情や無償の愛でしかないことに気づくことになるのです……。

小気味よいテンポとウイットに富んだユーモアが秀逸ですし、ショーン・ペンを始めとする出演者たちの見事な演技にも魅了されます。また動きがあり、時折アップの表情をとらえるカメラワークも最高で、終始見る者を惹きつけてやみません。ともすればお涙頂戴になったり、暗くなりがちなテーマですが、ウイットに富んだユーモアと奇をてらわない演出がさわやかな感動を呼びます。

2016年11月26日土曜日

小津安二郎「秋刀魚の味」













古くて新しい
小津作品の真骨頂

 私にとって小津安二郎監督の映画はとても相性がいいようです。
 遺作となった「秋刀魚の味」(1962年)は妻を亡くした父が、よく出来た娘をお嫁に嫁がせるまでの日々を描いた映画です。極端に言えば、日常のありふれたやりとりだけを描いた映画ですが、まったく退屈に感じません。むしろ心地よい疲れさえ感じるのはなぜなのでしょうか……。 すでに50数年前の映画ですが、小津監督の映画を見ていると何気ないあたりまえのシーンにも大切な人生の側面が浮き彫りにされているような気がするのです。

 この映画で交わされる会話はほとんど他愛のない内容です。しかし、そこには家族間の言うに言えない奥ゆかしい感情が漂っていますし、人として生きることの辛さや切なさが暖かな眼差しとともに伝わってくるのです。
 小津監督の美学はこの映画でも冴えに冴え渡っています。たとえば、カメラのポジションを変えないでローアングルで撮り続けるのもその一つでしょう。その他、無駄な動きを極力取り除いたり、俳優の視線、セリフの口調、調度品の色調の統一を試みたのも徹底した演出のこだわりからくるものなのでしょう。

 動きが少なく、セリフは棒読みのようで、時に物足りなさを感じるほどなのですが、かえってそのことが見る者に多くのことを考えさせるゆとりを与えてくれるのです。このようなシーンの演出も小津監督が名匠と言われるゆえんなのかもしれません…。



気心を知り尽くした
俳優たちとの呼吸

 私はこの映画を見て、なんだかとても胸が締めつけられるような気がいたしました。
 特に印象的なのは娘(岩下志麻)を嫁がせる日の父親(笠置衆)の表情です。心にぽっかり穴が空いたような感覚が伝わってくるシーンですね……。娘の幸福を考えればうれしいはずなのに、それが素直に喜べない父親の戸惑いや寂しさ……、そのような複雑な心境が絶妙に描かれているのです。


 花嫁衣装を身に纏った娘が畳に手を突いて「今までいろいろとお世話に……」と言いかけた瞬間、父が「ああ わかってる わかってる しっかりおやり…幸せにな」と言葉をさえぎる場面があります。
 ぶっきらぼうな表現なのですが、おそらく父にとってこれ以上のはなむけの言葉はなかったのでしょう…。おそらく、「家族なんだからそんな堅苦しい挨拶はいいよ」とか、あるいは「娘を送り出すってこんなに寂しいものだったのか…」のような入り混じった思いが心の中で交錯していたのかもしれません。


 小津監督は俳優たちに常々、「余計な個性を出してほしくない」と伝えていたようですね。彼の映画の常連キャストだった原節子や笠置衆も納得がいくまで何度も撮り直させられたようです。 小津監督は笠置衆に「あんたの演技が見たいんじゃない。とにかく言われたとおりにやってくれ」と口を酸っぱくして言っていたようです。

 「だったら役者は誰でもいいんじゃないの?」と思われるかもしれません。
 でもそうではなかったのです……。小津監督が願ったのは演技をしなくても確かな存在感と気品をスクリーン上に漂わせる役者の存在だったのです。小津組と言われ、毎回同じ役者さんで撮影に臨むことが多かったのも、彼らに全幅の信頼を置いてのことだったのでしょう。


 平凡な日常に横たわる孤独と寂寥感。時には能楽や小気味よいリズムの演劇の舞台を見ているような錯覚にとらわれる小津監督の独特の映画の世界。それは日本的情緒と哀愁を絡ませつつ、日本の伝統美とモダンアートのような斬新な美を両側面で魅せてくれる唯一無二の世界なのかもしれません……。

2016年6月26日日曜日

ポール・マザースキー  『ハリーとトント』










ロードムービーの傑作

 こういう映画って、撮れそうでなかなか撮れないのではないのでしょうか?
 仮に内容がネタバレしたとしても、この映画の良さは見ないことにはわからないでしょう。

 妻に先立たれ、ニューヨークのアパートで愛猫トントと暮らす年金暮らしのハリーが、区画整理で立ち退きを命ぜられたことから始まる様々な人々との出会いや交流を描いたロードムービーです。

 この映画のタイトルからすると猫のトントが主役級の扱いなのかと思ってしまいかねません。でも決してそうではなく、トントはハリーの思いがけない動向を左右する重要なキーパーソン(キーキャット?)になっているのです。
 たとえば娘のいるシカゴに向かう時、飛行機の手荷物検査がハリーには耐えられず、飛行機を断念してバスに乗り込みますが、バスの中でもハプニングが起きてしまい結局は途中で降りるようになってしまいます。でもこのことが様々な人との出会いを呼ぶことになるのですが……。

 成功の要因は一にも二にもハリーを演じるアート・カーニーの巧さでしょう。大らかで、決して上目づかいにものを言ったり、人を否定することなどしない。あくまでも人の話をよく聞き、忠告を素直に受け入れ、場を和ませる人柄と言ったら……。家族や出会った人々とのやりとりからそれがしみじみと伝わってくるのです。
 配役の設定もあるかもしれませんが、とにかくいい味を出しています。少しも気負ったところがなく、あくまでも自然体の演技なのです。できればこんなふうに年をとりたいものですね……。


シリアスな現実を
ユーモアとキャラクターの
魅力で包み込む

 この映画が制作された1970年代当時のアメリカはベトナム戦争で疲弊し、若者たちは心の行き場を失いドラッグに溺れる等、すべてにおいて自信を失った時代でした。
そのような時代を反映するエピソードもちらほらと交えながらも、ハリーからはそれを包み込む人間の大きさと大人の心のゆとりを感じるのです。

 はっとするような美しい場面も随所に現れます。
 たとえば、車を運転しているときに、ひとりごとのように出てくる亡き妻への想いやそれを見つめるトントや優しく包むピアノの調べ……。
 また、数十年ぶりに昔の恋人に会うために訪れた老人ホームで、時間のギャップを埋めるかのように二人で踊るダンスシーン……。いずれも切なさや優しさが込みあげてきて、時が止まったような感じさえする印象的なシーンです。

 シリアスな現実をユーモアとキャラクターの魅力のオブラートで包み込んだ愛すべき作品と言えるでしょう。


2015年10月17日土曜日

スタンリー・ドーネン 『パリの恋人』














ミュージカルのテンポの良さと
エンターテインメント性に
特化した映画


 オードリー・ヘップバーン主演の「パリの恋人」。本当に楽しい映画ですね!
 この映画は基本的にミュージカル仕立てなのですが、型にはまらず様々な趣向を凝らしていて、ストーリーの展開や流れがいいところが最大の魅力です。しかもお洒落でエレガント、かつユーモアたっぷりで、時にホロリとさせる心憎い映画なのです。

 監督のスタンリー・ドーネンは、名作『雨に唄えば』をはじめとする数々のミュージカル作品を手がけたミュージカル畑出身の人ですが、さすがに見せどころを良く知っていますね。
 たとえばミュージカルの大スター、フレッド・アステアと雑誌の編集長役ケイ・トンプスンがパリを舞台に繰り広げる華麗でキレのあるダンスは鳥肌が立つほど素晴らしいですし、流麗な音楽やファッション雑誌をめくるようなカット割りの効果によって、生き生きとしたエネルギーが伝わってくるのです。

 公開されたのが1957年ということを考えれば、当時としてはかなりモダンで斬新なテイストの映画であったことは間違いありません。とにかく全編にクリエイティブな雰囲気が満ち満ちていて、あらゆる観点から楽しめる演出が最高なのです。


ヘップバーンの魅力を
引き出した映画

 しかし、この映画の成功の一つとして、やはりオードリー・ヘップバーンの存在をあげないわけにはいかないでしょう。

 歌は決して上手ではないし、踊りも二人の名人に比べれば遜色があるのは致し方ないところなのですが、むしろそれがかえってこの映画に潤いや新鮮味を与えているのですね……。フレッド・アステアと現像所の薄明かりで踊るシーンの美しさはたとえようがありませんし、図書館で独りしみじみと歌うガーシュインの"How long has this been going on"の無垢な眼差しと情緒は他の女優さんからは決して得られないものといっていいでしょう。まるで、俗世間に咲いた野の花や妖精のように可憐な魅力をふりまき、私たちを魅了するのです。

 やがて、オードリーは当時のモードファッションを次々に披露していくのですが、不思議とその輝くような個性と相まって古臭さを感じませんし、忘れ難い印象を残すのです。
 『ファニーフェイス』(個性的で魅力ある顔立ち)という原題のタイトルはオードリーにこそふさわしいのか……と思ってしまいますね。
 とにかく古きよきミュージカル黄金時代の面影を残す『パリの恋人』はエンターテイメント好きの方々にとってはたまらない作品と言えるでしょう!





2013年11月11日月曜日

ジョージ・キューカー マイ・フェア・レディ













1960年代のミュージカル映画の傑作


 このところ、かつてのようなミュージカル映画の傑作にお目にかかれる機会がめっきり少なくなってしまいました。「かつてのような」というのはあまりにも乱暴な言い方かもしれませんが、1950年代、1960年代のミュージカル映画黄金時代の頃に比べると輝きやオリジナリティ、演出力等、決定的な何かが足らなくなっているように思うのです…。
 「踊る大紐育」、「巴里のアメリカ人」、「ウエストサイド物語」、「雨に唄えば」、「南太平洋」、「屋根の上のヴァイオリン弾き」「サウンドオブミュージック」……。今思えば1950、60年代はミュージカル映画の傑作が目白押しでした。映像と音楽とストーリーが一体となり、見る者に強いメッセージを送っていたのでした。ミュージカル作品と言えど、芸術的な香りが強く漂っていたことを思い出します。
最近では「レミゼラブル」が話題になりましたが、残念ながらストーリー、エンターテイメント性、キャスティング等々、過去の名作とは比べるべくもありませんでした。

さて1964年に公開された「マイフェアレディ」ですが、一般的にはいろいろな評価があるのでしょうが、私にとって大変見ごたえのある楽しい映画でした。まず、映像と音楽が美しく、その芸術的な演出や流れの良さは一級品だと思います。
粗野で下品な言葉づかいが特徴の花売り娘を社交界のプリンセスへと変貌させるシンデレラストーリーなのですが、何と言ってもヒギンズ教授(レックス・ハリスン)とイライザ(オードリー・ヘップバーン)のやりとりがコミカルで味があって面白いのですよね!


ケーキのフルコースを味わうような楽しさと豪華さ


 本編は色彩が鮮やかで、オープニングから有名なナンバーが次々と流れてきます。すでにこのオープニングからしてオペラのタイトルバックを想わせて感動的! 劇中でオードリー・ヘップバーンが着る衣装や「素敵じゃない」「スペインの雨」、「踊り明かそう」、「君住む街で」等のこれぞミュージカル!と言いたいような名曲の数々、エレガントで洒落た雰囲気…と、まるでケーキのフルコースを味わうような楽しさと豪華さ……。

 そして印象的な名シーンも随所にあり、何度見ても胸がワクワクしてくるのですね。特に忘れられないのはイライザがなまりを克服した時の喜びを歌う「スペインの雨」での溌剌としたシーンや社交界デビューを果たしたイライザ(ヘップバーン)が着飾ってヒギンズ教授らの前に現れた時の澄みきった表情の美しさ…。また映画の終盤にイライザはヒギンズ教授のもとを離れるのですが、強がって外を歩く教授の心の中を行き来するのはイライザとの思い出ばかり…。いかに教授にとって彼女が自分の心の大切な位置を占めていたかを痛感させられるシーン。

 この映画は1980年代に今はない銀座のテアトル東京ヘ(リバイバル上映)二度も観に行ったことを覚えています。あの頃の感激はもはや古き良き思い出として心の中にしまっておくしかないのでしょうか……。



2013年6月3日月曜日

クリント・イーストウッド 「ミリオンダラー・ベイビー」








ハリウッドの常識に染まらない映画

 2004年の映画、「ミリオンダラー・ベイビー」はここ数年間に見たハリウッド映画の中で文句なしに最高の映画でした。でも公開当時、アメリカ国内での反応はマチマチだったようです。興行収入をどれだけ叩き出すかが作品の価値と言われ、映画館動員数が絶対条件とも言われるハリウッドでこの映画は少々異質な映画だったのです……。
 昔からハリウッド映画産業とも言われ、商業路線をひた走りしてきたハリウッドですが、近年は明らかに芸術性やメッセージ性とは無縁な映画が氾濫するようになったのは確かなようです。何とも行く末を案じるしかない淋しい状況ですが、それでも稀に傑作がポーンと現れたりするのもハリウッドのハリウッド所以たるところでしょうか……。


ボクシングの師弟関係を超えた絆

 その稀にみる傑作の一つが「ミリオンダラー・ベイビー」であることは間違いありません! 注目は監督と劇中の名トレーナー、フランキー役を兼任するクリント・イーストウッドの存在でしょう。クリント・イーストウッドは言うまでもなく映画「ダーティハリー」で一世を風靡した俳優ですが、最近は活動の多くを監督業に割いています。それにしてもこの映画での細かい感情表現や深い人物描写はなかなか他に例を見ないもので、イーストウッドの成熟した力量に改めて驚かされるのです。
 映画は女子プロボクサーのマギー(ヒラリー・スワンク)と二人三脚で試合に臨むトレーナー、フランキー(クリント・イーストウッド)の話なのですが、決して女子プロボクサーのサクセスストーリーを描いたスポーツものではありません。実はよく似た境遇を辿ってきた(共に家族の愛に飢えていた…)二人が実の親子以上の絆を持つようになる人間ドラマなのです。つまり、心に深い傷を負った二人が同じ目的を持って練習や試合に臨むうちに師弟関係を超えた深い絆が生まれてきたということなのでしょう。


家族の愛に恵まれないマギー

 映画の中で特に印象的なシーンがあります。それはマギーがチャンピオンになり、長年の夢だった家を家族のために買ってあげたのですが、喜ばれるどころか「あなたの当然の義務!」のように吐き捨てられてしまいます。マギーにはまったく関心を向けないのに、そのくせボクシングのファイトマネーを要求してくる家族に、ついに彼女は見切りを付けてしまったのでした。
 ちょうどその頃、何気なくマギーが車の窓越しに外を眺めると、隣の車の中で親子が無邪気に戯れている様子が目に飛びこんできます。母親に甘え、愛嬌振りまきながらいろんな話をする子ども。その屈託のない笑顔……。どこにでも見られるあたりまえの光景なのに、マギーにとってはそれがあまりにも遠く叶わぬ夢であることに愕然とするのです。幸せそうな家族の姿を見ながら、心の行き場を失ってしまったマギーの失望感が痛いほど伝わってくる忘れられないシーンです。
 マギーは億万長者になりたかったわけでも、名声を得たかったわけでもなく、ただ家族にふり向いて欲しいだけだった……。家族の絆を感じたかっただけなのでしょう。ここにこの映画の深い闇があったのです。


深く考えさせられる衝撃のラスト

 チャンピオンの座に辿り着いたマギーですが、それ以降も快進撃を続けます。しかし、ある日フェアプレイを逸脱するボクサーとの対戦で不慮の事故に遭い、半身不随になってしまいます。回復する見込みもなく、もはやボクシングが出来なくなってしまったマギーは生きる望みを失ってしまい、フランキーに何度も「死なせてほしい」と懇願するようになります。このあたりから映画は暗い影に覆われていくのですが、懸命に最善の方法を見いだそうとするフランキーの姿に救われる気がします…。
 キリスト教会や障害者の団体から衝撃のラストについて否定的な意見が相次いだということですが、この映画の場合は決して形で見るべきではないと思います。二人の固い絆が導き出した結果がたまたまそういうものだった……ということに尽きると言っていいのかもしれません。
 
 この映画に大きく貢献しているヒラリー・スワンク、クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマンの地に足がついた演技も見事で、時間の長さも忘れ映画に引き込まれてしまいます。とにかく久し振りに人間の深い内面の世界を描き、考えさせられたハリウッド映画でした。





2013年4月18日木曜日

映画「舟を編む」


地味でマニアックだが面白い映画




 先日、映画「舟を編む」を見てきました。原作は三浦しをんさんの同名の小説です。 
 この小説は2012年の本屋大賞を受賞したということですが、映画を見ると「なるほどね!」と思わず納得してしまいます…。
 辞書編纂に没頭する人たちの物語で、とにかく一風変わった面白い映画でした。ここには凄腕の編集者やディレクターという類いの方々は出てきません。皆ちょっと個性的な愛すべき変人たちの集まりなのです。しかし、彼らは三度の飯より辞書の言葉集めや用語の注釈をすることが好きでたまらない人たちなのです!

 辞書の発刊は大変だということは漠然と分かっていたつもりだったのですが、その気が遠くなるような長期の作業期間には正直驚きました。映画の中でも出てきますが、「少なく見積もっても10年、長ければ30年もかかる」という発刊までの作業工程はおそらく常人ではできる作業ではないでしょう。要するにそこまで念入りな作業を経ないと世には出せないということなのかもしれません。この映画はいわゆる感動的とか人間の深い心の交流を描いたものではありませんが、地道に作業に没頭する姿からはこんな生き方もあるんだなと別の意味で感心させられる不思議な映画ですね。

 現代もこのような超アナログ的な作業が脈々と受け継がれていることへの新鮮な驚き……。もしかしたらこういう人たちこそ、文化の底流を支え絶やさないように苦心惨憺される方々なのかもしれないと思うことしきりでした。

 キャストはとてもいいですね!コミュニュケーション能力がなく営業をクビになり、辞書編纂部に配属された真面目一徹の馬締光也に扮する松田龍平がいい味を出しています。それを取り巻く配役も魅力的で、ベテランの編集者で辞書をライフワークのようにしてきた荒木役の小林薫、先輩で軽いノリだが渉外がうまい西岡役のオダギリ・ジョー、片時も用例採集カードを手放さない学者役の加藤剛、それぞれが本当に役にハマっていて、いささかも違和感が無く見事に演じきっているのに驚かされました。



2012年11月2日金曜日

野生のエルザ






 ずいぶん前のことになりますが、かつてテレビで大自然や動物の生態を描いた「野生の王国」や「驚異の世界」等のドキュメンタリー番組がたくさん放映されていました。これらの番組はどれも面白くて、毎回胸をワクワクしながらテレビに釘付けになって見ていたのを思い出します!考えてみればあの時代は今ほど簡単に情報を手に入れることなどできなかったし、ましてや遠い異境の地の映像を見るなど簡単ではなかったのでした……。
 それだけに毎回放映される自然の出で立ちはとても新鮮かつ驚きの連続で、「人間の常識を超えた世界が確実にあるんだな」ということをひしひしと感じたりもしたのです!

 野生のエルザ(1966年制作)はちょうどそのような動物の生態系に関心が注がれる時代に封切りされた作品でした。この映画はジョイ・アダムソンの自伝「Born Free」に基づく人間とライオンの心の交流を描いた作品で、リアリティあふれる映像は深い感動を呼び起こします。動物と人間の交流を描いた映画はたくさんありますが、「野生のエルザ」は今もって最高の感動作と言ってもいいでしょう。

 この映画の成功は全編ケニアロケを決行し、作り物ではない真実味にあふれた映像を獲得できたことが大きいのではないかと思います。特に子ライオンのエルザを育てたあげく、「自然の中で生まれたものは自然に帰すのが一番」と決心するところは大きな苦悩を伴い胸をうちます。その後、何度も挫折しながら野生に帰す試みをするアダムソン夫妻の姿はまるで実の子どもを一人立ちさせる親の姿のようです。エルザを野性に戻すことが成功し、数年後にアフリカを訪れた二人は感動の再会を果たすのでした……。

 この映画で何よりも印象に残るのは主演のビル・トラヴァースとヴァージニア・マッケナの自然な演技でしょう。二人はライオンを抱っこしたり撫でたりするのですが、どのシーンもスタントマン無しでやりきっており、その役者魂には感服いたします!
 彼らは実生活においても夫婦で、この映画を機に野生動物保護運動を精力的に始めたというのですから、役作りやアダムソン夫妻の生き方への共感の度合いも並大抵ではなかったということなのでしょう。

 ジョンバリーの音楽も壮大かつ余情の伝わってくる音楽で画面を暖かく満たします。この映画にこそふさわしい最高のスタンダードナンバーと言えるでしょう。


2012年4月21日土曜日

僕達急行ーA列車で行こう



いい味出してる映画「僕達急行ーA列車で行こう」






 最近3D映画が急増してきました。映画館に足を運ばせる人が減る傾向に歯止めをかけるためなのかもしれませんが、決して気分がいいものではありませんね…。なにしろ3Dメガネを通した映像が映画の感動の質を高めるものであれば大歓迎なのですが、そうでもありません。映像も無理矢理3Dにした感が強くて興ざめなのです。
 もしも映画の内容を3Dでカバーしようという動きがあるとしたら本末転倒もいいところでしょう。

 しかし、それ以上に残念で問題なのは3Dメガネのかけごこちの悪さです。顔が圧迫されるような感覚はとても辛く、最後までかけ通すことすら至難の技です。今後もどうしても3D映画を作るというなら、このメガネだけは何とかして頂きたいものです。

 そんな中、生粋の(?)2D映画を観てきました。それは先日亡くなった森田芳光監督の遺作、「僕達急行ーA列車で行こう」です。鉄道オタクの主演の2人(松山ケンイチ、瑛太)が偶然の出会いで意気投合するという話です。他愛の無い話なのですが、その語り口やストーリーの展開は軽妙洒脱でテンポが良く、まったく肩が凝りません。それでいてユーモアがいたるところに散りばめられ、何とも言えない空気感を出しているのです!何だか古き良き時代の映画を見ている感覚があるような無いような…!?。

 登場人物はみな一癖も二癖もあるような曲者ばかりで、不思議と言えば不思議な映画です。けれども、「どうだ」と言わんばかりの作為的な自惚れや演出のようなものが感じられず、その分肩の力を抜いてリラックスした状態で観ることができるのがとてもうれしいのです!
 深刻なストーリーの映画、CGバリバリの映画、内容がぎっしり詰まった映画を見疲れたあなた! この映画を観てください。案外いい気分転換にもなり、時間を忘れて楽しめるかもしれませんよ。


2012年3月23日金曜日

映画「おかえり、はやぶさ」








 先日、渋谷の映画館で「おかえり、はやぶさ」を見てきました。この映画は「はやぶさ」の打ち上げから帰還までのプロセスを科学的な実証や解説を施した少々硬派な映画かと思いましたが実際はそうではありませんでした。

 一言で言えばこの映画は小惑星宇宙探査機「はやぶさ」にかけるプロジェクトチームの不屈の信念と忍耐を描いた作品ということになるでしょう。
  予想はしていたものの、日本の宇宙開発事業をとりまく環境は決して恵まれたものではないようです。かけられる予算はとても低く、アメリカの10分の1、中国やインドにすら遅れをとっているという現実…。しかも、日本の宇宙開発事業における周囲の無理解はプロジェクトチームの士気や活動にも大きく影響していきます。結果が出なければ容赦なく予算を削られたり、国民の税金の無駄遣いをしたと言われる等、さまざまなことがスタッフにプレッシャーとして重くのしかかってきます。

「目に見えないもの」にはあまり価値をおかない日本の国民性からすれば致し方ないのかもしれませんが、 それにしてもこれで日本の未来はあるのだろうか…。と思ってしまいます。
  映画としては意外にあっさりしていますし、完成度や芸術性という面ではさほどではないかもしれません。スタッフがどうしてここまで「はやぶさ」に情熱を注げるのかという視点ももう少し描いてほしかったという要望もあります。 出演スタッフの演技は総じてなかなか良かったものの、配役に関してはミスマッチもありました。

 でもこの映画はとても好感が持てました! 見終わった後の心地良さや、気持ちを前向きにさせてくれたことになぜかとてもうれしくなったのです。自分にとって今は芸術性云々や難しい映画より見終った後に疲れない、さわやかな希望を与えてくれる映画を見たいんだなと再認識させられた次第です。



2012年2月17日金曜日

ALWAYS 三丁目の夕日'64


人情とユーモア、映像で昭和の空気を巧みに描き出す








 先日、「ALWAYS三丁目の夕日'64」を観てきました。1作目からすると、約7年の歳月が経ったことになるのですが、相変わらず期待を裏切らない良い作品でした。
この作品を観て「失敗だった」と思う方はまずいないのではないでしょうか。それくらい誰もが気軽に親しめる娯楽性があるし、昔のアルバムを紐解いて古き良き時代を回想し懐かしむような特別な雰囲気があるんですね!ストーリーも非常にわかりやすく、消化不良な感じもほとんどありません!帰る時にはあったかな気持ちで映画館を後にできるのが何よりいいと思います。

 前2作のようにミニチュアを使った撮影やCGを巧みに駆使して古き良き昭和の時代を再現しているのですが、当時の空気感や詩的なイメージもよく出ており、この時代に青春時代を送ったという人にはたまらない作品でしょう!1964年は東京オリンピックの開催や新幹線が開通した年で、いわば高度経済成長のピークともいうべき年でした。希望と夢にあふれていた時代でもあったことが伝わってくるようですね…。

 前作から茶川(吉岡秀隆)と淳之介(須賀健太)の関係がこの映画の大きな柱になっているように思いますが、今回も雑誌の連載小説をめぐって様々な問題が勃発します。他にも様々なエピソードがおさまりがいいところに落ち着いて、あまりにも話が出来すぎでは…と思うこともありますが…。でもこの映画なら許せそうです。
 今回からは3D版の上映もされました。それでどんな感じに見えるのだろうかと思って3Dにしたのですが、結果としては別に無理して3Dを観なくても良かったかなという感じでしたね。個人的には3Dメガネは圧迫感があって、最後まで装着するのがとてもつらい。ただ、オープニングで東京タワーがクローズアップされ、タワーのてっぺんまでグングン上がってタイトルが現れるあたりは3Dの醍醐味充分という感じでした。

 ストーリーの展開からすると、どうやら次作もありそうですね…。時代としてはやはり70年の大阪万博あたりまで進んでしまうのかもしれません。



2011年10月7日金曜日

イングマル・ベルイマン 野いちご



Smultronstället 1957


授与式前日の恐ろしい夢と
愛に飢え乾いた孤独な人生

  普段、私たちは時間に追われたり、日常の雑多な出来事に振り回されたりしています。でも自分自身を振り返ることはあまりないのではないでしょうか?

 あるいは、潜在的に自分自身をあまり振り返りたくないと思っているのかもしれません。でも誰もが人生の節目を迎えると「はた」と思い当たることだし、心の奥底では絶対に避けては通れないことなのだとはっきり自覚しているのです。

 「野いちご」の主役、老教授イサクもまさにそのような状況に立たされていたのでした。彼は医学名誉学位の授与式の前日に恐ろしい夢を見ます。その夢があまりにも恐ろしかったことから我に帰り、走馬灯のように屈折した様々な過去が蘇っていきます。

  イサクは医学の分野では大きな功績を積み、人からは一応尊敬されてきたけれど、実際は愛に飢え渇いた空虚で孤独な人生だった事を再認識するのです!ついには自分自身の人生を「それが一体何だというのか……。私の人生は人としてどれだけの意味があったのだろうか?」と、軽蔑したり後悔したりするのです。

 これはとても他人事とは思えないリアリティにあふれたテーマではないでしょうか。イサクの動揺や孤独は深刻なほどで、様々な名誉や称賛、肩書きも自分の死とともに、音を立てて崩れ去っていくのでは……。という虚無感が拡がっていくのです。それは夢と現実が交錯する様々な幻想的なシチュエーションによって更に効果的に描かれていくのです。

 しかし、この映画では今まで心に留めることさえなかった人々との出会いを通して、イサクが次第に心を解放し、心の空洞やわだかまりが埋められていきます。ベルイマン監督のその過程に至るまでの丹念な描写が本当に見事です!
 全編を通してこの映画は静かな語らいの中で進行します。音楽や映像上の誇張はほとんどありませんが、そんなことをすっかり忘れさせるほど映像は格調高く詩的な味わいに満ち、この老人の辿ってきた人生を意味深く回想していくのです。


人間の内面に光を照らした
奇跡のような作品

 過去、これほど哲学的なインスピレーションに貫かれた映画は見たことがありません。人間の内面に光を照らした作品としては際立って優れています。たとえば、1人の人間の心の動揺や孤独を様々なエピソードやシチュエーションによって描き出すストーリーは絶妙です。ベルイマンの本質をしっかりつかんで離さない演出や脚本も見事ですが、何といっても老教授イサクを演じたヴィクトル・シェストレムの演技は素晴らしく、どこまでが現実で、どこまでが演技なのか見分けがつかなくなるほど役柄に没入しています。

  過去、映画名作選10傑というような特集が雑誌で組まれると、この作品は必ずといっていいほど選ばれたものでした。でもその理由も分かる気がします。確かに映像で人間の心の内面を描くことは至難の技なのです。ともすればありきたりのつまらない作品になったり、何を言いたいのか分からない作品になりやすいのです。
 けれどもベルイマンの場合は人間の永遠のテーマである生と死、欺瞞、絶望、孤独、愛、安らぎ等を等身大で丁寧かつ大胆な手法を用いながら表現をしていくのです。

 最近、ハリウッドの映画が全体的に貧弱になってきています。観客動員数、興行収入もいいのですが、肝心の内容がいま一つだと、その時はよくても結果的には映画離れを促進させることにつながりかねません。「昔は昔、今は今」、「見たくなければ見なければいんだよ」と言われればそれまでですが、商業路線が顕著にあらわれすぎているように思えて仕方がありません。どうも映画そのものの重みがなくなってきたように思います。

 そういう意味でもこの「野いちご」をご覧になれば、半世紀前にはこんな芸術的な映画もあったのか!と認識を新たにされるのではないでしょうか。良質で、何年たっても感動的に心によみがえる映画の登場が今の時代には願われているのかもしれません。





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2011年8月5日金曜日

堤幸彦 映画「明日の記憶」






この映画は封切された当時からかなり話題を呼んだ映画でした……。

広告代理店の営業部長として同僚やクライアントからの信頼も抜群、精力的に仕事をこなす佐伯雅行。家庭も娘の結婚を間近に控え、すべてに順風満帆と思われました。しかし、物忘れが激しいことやめまいが度々起きることから恐る恐る病院を訪れると……。
耳を疑うような診断結果が下されたのでした。

この映画は若年性アルツハイマー病と診断された佐伯(渡辺謙)が記憶を少しずつ失っていく恐怖や動揺を描き、佐伯を支える妻の枝実子(樋口可南子)が狼狽えながらも、それを真剣に受けとめていく姿を描いています。
日常、誰にでも起こりうる「まさか……。何故?どうして!?」としか言えない不意に訪れる人生の皮肉と不条理……。そして人が生きる意味を深く投げかけた作品でした。

原作は荻原浩の同名小説ですが、主演の渡辺謙はこの小説を読んで居ても立ってもいられなくなるくらい感動したそうです。そこで渡辺は荻原宛に「この作品をぜひ映画化させてほしい」と直接書いて送ったそうです。渡辺謙は自身も病気で死ぬほど辛い体験を身を持って味わっているので、この小説の主人公に大いに共感する部分があったのでしょう。言ってみれば、渡辺謙の強い思いがこの映画を実らせ、稀有な名演技を生み出したのだと思います!
渡辺にとってこの映画は初主演映画で、これ以降本格的にハリウッドに進出し大活躍することになります。まさにこの「明日の記憶」は渡辺にとって人生を変える大きなターニングポイントとなった映画であり、俳優渡辺謙の原点になった作品と考えていいのかもしれません。

……というわけで、この映画の成功の大きな要因は主役2人(渡辺謙、樋口可南子)の自然でデリカシーあふれる演技に尽きると思います。たとえば、佐伯(渡辺)が娘の結婚式でスピーチをする場面で涙で声をつまらせるシーンがあります。このシーンは娘のこと、家族のこと、今自分が置かれている現実も含め様々な感情が湧き上がり、どうしようもなく複雑な佐伯の心の動きが目に見えるかのようでした……。また、医師から病気を宣告され取り乱し、錯乱状態に陥り、人間的弱さを垣間見せるところは本当に凄く、真に迫る何かがありました。

枝実子(樋口)はラストシーンで夫がついに自分のことも忘れてしまい絶望の淵に落ちていきます。その悲しみの表現の絶妙なこと……。来るべき時が来てしまったことに枝実子は深い失意の思いで泣き出してしまいます。しかし、それでも佐伯が出会った頃の馴れ初めを覚えていてくれたことに気をとり直しながら、あるがままを受け入れようとする枝実子の姿にとても大切な何かを見るような想いがするのです。
その他にも光る演技は多々ありますが、この主役二人の随所に安定した印象的な演技がアルツハイマー病の深刻さを強く記憶に留めさせたことも間違いないでしょう。 
脇を固める役者もそれぞれに印象的で、特に二人を結びつけるきっかけをつくった大滝秀治の個性的で存在感のある演技は光ります。渡辺えり、香川照之もしっかりした役作りをしています。 

映画はあっけないラストを迎えますが、おそらく今後も二人は計り知れない苦痛を味わい、様々な不自由を味わうことになるのでしょう。しかし、本当に愛する人が存在したという紛れもない事実とこれからも同じ時間を共有する上で感じる心の世界はこれまでの何倍も何十倍も深い意味を持つようになるのではないかという気がしてくるのです。





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2010年8月11日水曜日

ルイ・マル 死刑台のエレベーター









 この映画はルイ・マル25歳の時のサスペンス映画の傑作です。この作品によってルイ・マルの名声は確立したといってもいいでしょう。
モーリス・ロネ扮する主人公が愛人の夫を殺し、すべては完全犯罪のシナリオが成立したかのようでしたが……。ふとしたことからエレベーターに閉じ込められてしまい、そこからシナリオは大きく崩れていってしまいます。それは崩壊への序章だったのでした。最後の思いがけない結末に至るまで、すべては偶然の一致による状況証拠がストーリーを二重にも三重にも面白くさせるのです。
 
 ルイ・マルの演出は素晴らしく、冒頭のシーンから日常に潜む運命のいたずらを見事に表現し、見る者を釘付けにします。クールな殺人者を演じる モーリス・ロネや薄幸の愛人役のジャンヌ・モローも迫真の演技で、この作品を盛り上げています。そして、クールで救いようのないムードをさらに引き立てるのが、マイルス・デイビスのトランペットを基調にした音楽です。夜の静寂にこだまするようなこの音楽は白黒の画面と相まって独特の雰囲気を醸し出ています。
 それにしても自らが引き起こした事件に翻弄され、動揺や焦燥感を募らせる当事者の心理的側面を憎らしいほどにうまく描いており、ただ、ただ、「悪いことはできないな……」。と痛感させられるばかりです。

 本作は近々、デジタルニュープリント版でリバイバル上映されるとのこと。フランス映画黄金時代のサスペンス傑作に触れたい方は、是非この機会にご覧になってみてください。