2010年4月6日火曜日

モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」ハ長調K.551



モーツァルトが生まれ育ったザルツブルグの風景




 モーツァルトは不思議な作曲家です。というのは、明らかにジャンルによって作曲のスタイルを変えているようでならないのです。たとえば最も得意とするオペラでは上流社会の破廉恥なドタバタを痛烈に皮肉った挙句、生き生きとした特上の作品を作りあげてしまいます。
 かと思えば、ピアノソナタやヴァイオリンソナタでは鼻歌交じりの上機嫌なメロディをいとも簡単に作りあげてしまうのです。また、セレナーデでは当時のロココ調のスタイルに合わせた作品が見事にすんなりとできてしまいます。こういうところにもモーツァルトの天才性が遺憾なく発揮されているのかもしれませんね。
 では交響曲はどうかというと、ここではプライベートなモーツァルトではなく、フォーマルなキチッと正装した音楽になっているのです。

 ですから、たとえセレナーデは「甘ったるい」とか、オペラは「下品だ」と非難されても、交響曲について生理的に受け入れられないという声はあまり聞きません。モーツァルト最後の交響曲41番「ジュピター」はその最たるものでしょう。この作品はロココ調の要素もあるし、ロマンティックな要素もあります。しかし、全体を一貫しているのは宇宙的で形而上的な楽想なのです。この作品の凄いところは、晴朗な輝かしい曲にもかかわらず、実は非常に内面的に深化され、純化された音楽となっていることでしょう。
 
 第1楽章は人生の重荷をいっぱい抱えながらも、それを一切表には出さず、音楽はドンドンと前進していきます。第2楽章は優美なメロディですが、展開部は魂の深淵を覗き込むような恐ろしい表情も垣間見られます。しかし、音楽は決して重々しくなることはありません。スケール豊かに展開される第3楽章のメヌエットも見事です。第4楽章のフーガは昔から「神が与えた音楽の奇跡」とさえ言われ、絶賛されてきました。しかし、この楽章にも哀しみや孤独、苦しみといった負の感情が散りばめられているのですが、それとは気付かないくらい透明感や崇高な音の光が気高さの中に色濃く流れているのです。もちろん、ベートーヴェンのような勝利の賛歌にはなりませんが、モーツアルト特有の透徹した美しさが何とも言えない魅力を醸し出しています。人間くさい様々な感情もここでは、昇華された至高の音楽になっているのです。

 パブロ・カザルスが指揮したマールボロ祝祭管弦楽団は決して大人数のオーケストラではありませんが、音色は大オーケストラにも負けない非常に気迫のこもった音を奏でています。「ジュピター」では出だしから気迫みなぎる音が奏でられます。第1楽章の怒涛のように押し寄せる感情の波は苦しみを乗り越えるべく必死にあえでいるかのようです。第2楽章の深い呼吸で奏されるカンタビーレは様々な表情を伝え、魂の鎮魂歌のような趣さえも湛えていきます。第3楽章の緊張感と自在感に満ちた表現も立派。第4楽章のなりふり構わず前進する演奏に圧倒されながら、ついに見事なフィナーレを迎えていきます。これはカザルスが残したベストパフォーマンスの一つでしょう!