短調の音楽が
長調の曲より深い
という錯覚
日本では一般的に長調の曲よりも短調で書かれた曲のほうが内容が深いとか芸術性が高いと思われる傾向があるようです。
その証拠にモーツァルトの一番人気の曲は交響曲第40番であったり、ピアノソナタ9番K310が演奏会でよくとりあげられたりします。また、ベートーヴェンでも交響曲第5番「運命」や熱情ソナタ等は抜群の知名度を誇っています。それは有名なシャコンヌを含むバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番の場合も同様でしょう。
もちろん短調の曲だから優れているという訳ではなく、純粋に作品として優れているから名曲として語り継がれてきているとは言えますよね……。
しかし冷静に考えると、個々の作曲家の最高傑作と捉えてもおかしくない長調の作品が意外にも地味な扱いに甘んじていないわけでもありません。
たとえば、壮大な抒情詩として人間と自然の対話を描いたベートーヴェンの交響曲第6番「田園」や、格調高い古典美と颯爽としたデリカシーが光るモーツァルトの交響曲第38番「プラハ」等はどう考えてももっともっと評価されてもおかしくない作品だと思います。
根拠のない副題
ヘンデルの「調子の良い鍛冶屋」
またクラシック音楽に付けられる副題ってありますが、どうも副題は作品を印象付けるために面白おかしく付けられる傾向があるようですね……。そのあおりを最も受けているのが、もしかしたらハイドンやヘンデルではないでしょうか?
ハイドンの交響曲には「めんどり」とか「熊」、「校長先生」、「火事」、「うかつ者」、「驚愕」のようにおよそスタイリッシュではない副題の作品がズラリと並んでいます! しかし、副題のイメージだけに惑わされてはいけません。純粋に曲に耳を傾けると、それがただの固定観念以外の何物でもなかったことに気づかされるのです!
それはヘンデルの組曲第5番に入っている「調子の良い鍛冶屋」(最終曲のエアと変奏曲)もまったく同じですね。誰が名付けたのかわかりませんが、本当に調子がいい……というか無責任な副題だと思います。
さて、組曲第5番HWV430は全曲を通しても、せいぜい12分程度の長さで、親しみやすさ、音楽の充実度からいっても申し分ない作品です。CDが見つかったら、是非とも先入観なしで音楽を聴いてほしいと思います。
副題になっている「調子の良い鍛冶屋」ですが、親しみやすく格調高いという相反する要素をあたりまえのように音楽として結実させているところに驚かされます。かつ、変奏曲の展開の見事さは賞賛に値するでしょう。リズムや調性を微妙に変えながら音楽がどんどん発展していく様子はヘンデルの音楽家としての天分以外の何物でもありません。
また、第1曲の前奏曲の情報量の多さにはビックリします!泉がこんこんと湧き出すような主旋律と対旋律の織りなす多彩な響きに惹きつけられますし、心の高揚感を表すアルペッジョの効果も驚くばかりです。
第2曲アルマンドは、これといった特徴的な主題こそありませんが、水面のさざ波を思わせる穏やかな叙情がかえって心に深く刻みこまれます。
ハイドシェックの
唯一無二の名演奏
組曲第5番HWV428はピアニストとしての表現力や資質の差が出やすい作品といっていいでしょう。
特に最初の前奏曲は大きな差が現れやすい音楽だと思います。これを無表情で淡々と弾かれてしまうと、その後の期待感は一気に萎んでしまうといっていいでしょう!逆にこの前奏曲で堪能させてくれると、希望が大きく膨らむことも間違いありません。
その前奏曲が最高に素晴らしいのがエリック・ハイドシェック(CASSIOPEE)です。これは輸入盤で、20年以上前に発売されたCDですので、非常に手に入りにくいでしょうし、お店や通販での在庫の確認は必至です。
とにかく何という音楽センスと表現力でしょう! 主旋律と対旋律、様々なパッセージが大きな弧を描くように意味深く響いてくるのです。もはやバロック特有のマニュアル通りというか…、コチコチの煮ても焼いても食えないような表現ではありません!ヘンデルの組曲がこれほど生き生きとニュアンス豊かに、しかも花の香りが伝わってくるようなエレガントな響きを実現させたのはハイドシェックだけではないでしょうか?
最後の「調子の良い鍛冶屋」も、もちろん素晴らしく、音楽の生き生きとした流動感やエレガントな響きに魅せられつつ、曲はあっという間に終わりを告げるのです!