2010年4月27日火曜日

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101









大きな物の見方が要求されるベートーヴェンの作品

 「木を見て森を見ず」ということわざがあります。これは細かい所には気が付くけど、全体を把握できなかったり、大きな物の見方が出来なかったりなどの意味があります。当然そのことによって大事なものを見落としやすくなったりするわけです。おそらくほとんどの方はこの意味をご存知でしょう。 

 芸術にあてはめれば、ピアノの演奏やヴァイオリンの演奏も然りであり、絵を描くこと等も当然あてはめられるでしょう。これは人として生きていく上で、すべてのことにあてはまる普遍的な真実なのかもしれません。しかし音楽の演奏スタイルに関して言えば、タッチを装飾的に弾いてみたり、曲のイメージを壊さないようにすっきりと弾いてみたりとさまざまな表現が可能になってきます。

 演奏家がシューマンやショパン、シューベルト、リスト、メンデルスゾーン、ドビュッシー等の美しい音色を持つ作曲家の作品を演奏する場合、磨き抜かれたテクニックやタッチで音楽を築きあげることも可能でしょう。ニュアンスの変化や微妙な崩し方で魅力的に仕上げることも可能ですし、パーツパーツを凝ることも可能だと思います。もちろん、誤解のないよう申しますが、これらの作曲家の作品が「木を見て森を見ず」と言うわけではまったくありませんので悪しからず。

 これに対し、ベートーヴェンの作品は「木を見て森を見ず」という格言がほとんどあてはまらないのではないでしょうか。そのあたりが他の作曲家と同類に語ることが出来ない特異性なのだと思います。



人生の苦難を超えた成熟した大人の心のゆとり「Op.101」

 ベートーヴェンといえば汗が滴り落ちても一切それを拭わない、なりふり構わず前進する剛毅な姿こそ彼の最大の魅力と言っても過言ではないでしょう。
  交響曲第5番やピアノソナタ「熱情」はその端的な例です。 しかし、後期の28.29.30.31.32番のピアノソナタあたりは中期の壮絶な内面の格闘を基調にしたイメージとはかなり趣きが異なってきます。特にここでとりあげるピアノソナタ28番はそれまでのベートーヴェンのイメージとはかなり様変わりしていることに気づかれるに違いありません。

   ここにはあらゆる意味で人生の苦難を超えた成熟した大人の心のゆとりが聴きとれるのです。しかも、優しさが漂い、ちょっとした寂しさや悲しみの中にも、それを覆い尽くすような海のような淀みない魂が広がっているのです。

 人は一朝一夕にこのような境地に到達できるものではありません。ひたすら透明で深い詩情を湛えながらも、何事にもビクともしないベートーヴェン特有の骨太さが例えようのない聴き応えを与えてくれるのです。体裁を繕う自己主張や虚栄心や表面的な泣き笑いがとてもナンセンスに聴こえて しまうほどの真実性がここには広がっているのです。



安心して聴けるバックハウスの演奏

 演奏も当然、他の作曲家とは違うアプローチが必要になってきます。まず言えるのは小手先だけのテクニックは通用しないということでしょう。卓越したテクニックで小気味よく弾いても、場合によっては演奏家の空疎な精神性が露になってしまう危険性を充分にはらんでいるのです。そのような意味でも演奏家にとってはまったく油断のできない恐ろしい作曲家なのです。

  ところで、この作品に関しては、なかなかいい演奏が少なく、改めて曲の表現の難しさを痛感するばかりです。あえてあげれば、バックハウス盤(Decca)ということになるでしょう。この人は、ベートーヴェンの作品に関しては一つのスタンダードとして定着しており、確かにその演奏の数々は自信と確信に満ちています。この28番の演奏もまったくテクニックに走ることはなく、ひたすらベートーヴェンの心の息吹や内面の美を伝えることにのみ心が注がれているように感じます。

  したがって、時にタッチがもつれたり、不揃いになったりすることもありますが、そのような些細な欠点をも長所に変えてしまう非常に意義深い素晴らしい演奏と言えるでしょう。