2013年6月8日土曜日

忘れられないアーティストたち1  カール・リヒター

 

















強い求心力を持つバッハ演奏

 現在バッハ演奏が一つの過渡期を迎えているように思えてなりません……。
 1980年から2000年頃までのバッハ演奏はオリジナル楽器演奏の百花繚乱の時代でした。オリジナル楽器の演奏は1980年から90年代にピークを迎えたのですが、今はかつてのような輝きを失いかけているように思うのです。
 当時はアーノンクール、ガーディナー、レオンハルト、クイケン、ブリュッヘン、ゲーベル、ピノックらの出現が新しいバッハ演奏時代の幕開けを感じさせるのに充分だったのでした。透明感のある弦の響き、旋律線のくっきりと浮かびあがる楽しさ、スタイリッシュな造型等、まるで手埃にまみれた西洋音楽を綺麗に洗い落とした爽快さや新鮮さがあったのです。

 そのような古楽系のアーティスト全盛時代にリヒターの演奏スタイルは「もう古い」とか「厳しすぎて聴くのに疲れる」という声をよく耳にしたものです。でも、リヒターの演奏はもう古いと断定してもよかったのでしょうか?
 今改めてリヒターの演奏を聴くと、その求心力の強い確信に満ちたバッハが愛おしくて仕方ないのです。

 私がリヒターの演奏に最初に出会ったのはブランデンブルグ協奏曲の第2番(アルヒーフ)でしたが、この出会いは衝撃的でした。なにせ、バッハ演奏に対する価値観がこのときからすっかり変わってしまったのですから……。
 それまではカラヤンの指揮する演奏を格式があって美しい演奏だと思っていました。ところが、リヒターの指揮する2番は最初から違っていたのです。 冒頭に出てくるトランペットの朗々とした存在感のある響き、速めのリズムで輝きを放つように展開される充実した音楽……。気がついたらすっかりこの2番の虜になっていたのです! あの時ほど、「この違いは一体何だろう!」と痛感させられたことはありませんでした。


バッハへの深い愛情と畏敬の念

 リヒターはバッハ演奏のスペシャリストとしての位置づけがよくされるようです。改めて言うまでもなく、彼はバッハ演奏に全生涯を捧げた激烈な人生でした。特に1950年代後半から1960年代にかけては厳しく清冽な演奏が多く、音楽に対して一切妥協しないリヒターの一途な精神が強く反映されているのです。
 現在の指揮者たちとリヒターとの大きな違いはバッハへの深い愛情と畏敬の念ではないのでしょうか。特に声楽曲とカンタータはそのことを強く感じさせます。

 リヒターはバッハの作品の中でも、声楽曲(宗教曲)については大変なこだわりを持っていました。中でもカンタータ集の録音はやや地味なジャンルでありながら、他に比肩するものがないくらい高い境地にあったことは紛れもない事実でしょう。彫りの深い表現、あいまいさのない毅然とした合唱、宗教性と気品の高さが相まった崇高な雰囲気、バッハの精神性を歪みなく伝えようとする誠実な態度等、どれをとっても「なぜリヒターがカンタータを録音するのか」という必然性がいやというほど伝わってくるのです!

 そのリヒターが指揮したバッハの最高傑作は、1958年のミュンヘン・ヘラクレスザールで録音されたマタイ受難曲(アルヒーフ)に尽きます。「マタイ」はバッハの宗教性や芸術的な感性が高度な次元で結晶化した傑作ですが、リヒターの演奏はバッハの魂が脈々と語りかけるような驚くべき名演奏と言っていいでしょう。中でもミュンヘンバッハ合唱団の清楚で素直な歌唱は大きな魅力です。
実はミュンヘンバッハ合唱団の団員たちもリヒター自らがドイツ各地に足を運んでスカウトしたり募集したメンバーが軸になって構成されていました。そのような一から育てあげた手作りの味わいや温もりがこの録音からも聴きとることが出来ます。

 あくまでもプロ的な慣れや安定やバランス感覚といった要素を嫌ったリヒターですから、当然受難曲のような作品においては歌手たちも初々しい感動や哀感を絡ませ、一期一会のような名唱を繰り広げているのです!
 

聖堂のような凛とした佇まい

 エルンスト・ヘフリガーやフィッシャー・ディースカウ、マリア・シュターダー、ヘルタ・テッパー、キート・エンゲン……、とリヒターの宗教曲やカンタータの演奏で重要なパートを歌う歌手たちはほぼ毎回同じメンバーでした。気心がよく通じるメンバーで演奏することはリヒターの表現を忠実に反映させる上では必要なことだったのでしょう。
 彼らが口を揃えて言うのは、「リヒターには特別な雰囲気があった」と言うことでした。それが即ち「聖堂のような凛とした佇まい」ということだったのでしょう。

 バッハばかりが取りだたされるリヒターですが、もちろん他の作曲家の録音にも名演奏があります。その代表格がヘンデルということになるでしょう。オラトリオ「メサイア」、「サムソン」、オペラ「ジュリオ・チェザーレ」のような大作の録音も行い、それぞれに充実した演奏を残していますが、何と言っても素晴らしいのは「合奏協奏曲作品6」です。中でも作品6の第5番、9番あたりの剛毅な迫力、研ぎ澄まされた感性はこの作品のスタンダードと言っても良く、誰もが目を見張る名演奏と言えるでしょう。

 バッハの演奏で瞬く間に世界の檜舞台に立ったリヒターですが、もしリヒターがあと20年、いや10年だけでも長く生きていてくれれば、音楽地図は現在とはかなり違ったものになっていたことでしょう……。おそらくヘンデルのオラトリオの演奏やハイドンの交響曲、オラトリオ、ベートーヴェンの交響曲、モーツァルトの交響曲とレパートリーも拡げ、大いに楽しませてくれたに違いありません。

 古楽全盛の昨今、バッハの演奏はずいぶんと身近なものになってきました。しかし、「今なぜその曲を演奏するのか」という必然性が希薄なアーティストもいる中でリヒターの芸術に対するポリシーは高潔で傑出したものでした。バッハの音楽の魂の源流を追い続けたリヒターの演奏は今後も多くの人の心に生き続けることは確かでしょう…。



2013年6月3日月曜日

クリント・イーストウッド 「ミリオンダラー・ベイビー」








ハリウッドの常識に染まらない映画

 2004年の映画、「ミリオンダラー・ベイビー」はここ数年間に見たハリウッド映画の中で文句なしに最高の映画でした。でも公開当時、アメリカ国内での反応はマチマチだったようです。興行収入をどれだけ叩き出すかが作品の価値と言われ、映画館動員数が絶対条件とも言われるハリウッドでこの映画は少々異質な映画だったのです……。
 昔からハリウッド映画産業とも言われ、商業路線をひた走りしてきたハリウッドですが、近年は明らかに芸術性やメッセージ性とは無縁な映画が氾濫するようになったのは確かなようです。何とも行く末を案じるしかない淋しい状況ですが、それでも稀に傑作がポーンと現れたりするのもハリウッドのハリウッド所以たるところでしょうか……。


ボクシングの師弟関係を超えた絆

 その稀にみる傑作の一つが「ミリオンダラー・ベイビー」であることは間違いありません! 注目は監督と劇中の名トレーナー、フランキー役を兼任するクリント・イーストウッドの存在でしょう。クリント・イーストウッドは言うまでもなく映画「ダーティハリー」で一世を風靡した俳優ですが、最近は活動の多くを監督業に割いています。それにしてもこの映画での細かい感情表現や深い人物描写はなかなか他に例を見ないもので、イーストウッドの成熟した力量に改めて驚かされるのです。
 映画は女子プロボクサーのマギー(ヒラリー・スワンク)と二人三脚で試合に臨むトレーナー、フランキー(クリント・イーストウッド)の話なのですが、決して女子プロボクサーのサクセスストーリーを描いたスポーツものではありません。実はよく似た境遇を辿ってきた(共に家族の愛に飢えていた…)二人が実の親子以上の絆を持つようになる人間ドラマなのです。つまり、心に深い傷を負った二人が同じ目的を持って練習や試合に臨むうちに師弟関係を超えた深い絆が生まれてきたということなのでしょう。


家族の愛に恵まれないマギー

 映画の中で特に印象的なシーンがあります。それはマギーがチャンピオンになり、長年の夢だった家を家族のために買ってあげたのですが、喜ばれるどころか「あなたの当然の義務!」のように吐き捨てられてしまいます。マギーにはまったく関心を向けないのに、そのくせボクシングのファイトマネーを要求してくる家族に、ついに彼女は見切りを付けてしまったのでした。
 ちょうどその頃、何気なくマギーが車の窓越しに外を眺めると、隣の車の中で親子が無邪気に戯れている様子が目に飛びこんできます。母親に甘え、愛嬌振りまきながらいろんな話をする子ども。その屈託のない笑顔……。どこにでも見られるあたりまえの光景なのに、マギーにとってはそれがあまりにも遠く叶わぬ夢であることに愕然とするのです。幸せそうな家族の姿を見ながら、心の行き場を失ってしまったマギーの失望感が痛いほど伝わってくる忘れられないシーンです。
 マギーは億万長者になりたかったわけでも、名声を得たかったわけでもなく、ただ家族にふり向いて欲しいだけだった……。家族の絆を感じたかっただけなのでしょう。ここにこの映画の深い闇があったのです。


深く考えさせられる衝撃のラスト

 チャンピオンの座に辿り着いたマギーですが、それ以降も快進撃を続けます。しかし、ある日フェアプレイを逸脱するボクサーとの対戦で不慮の事故に遭い、半身不随になってしまいます。回復する見込みもなく、もはやボクシングが出来なくなってしまったマギーは生きる望みを失ってしまい、フランキーに何度も「死なせてほしい」と懇願するようになります。このあたりから映画は暗い影に覆われていくのですが、懸命に最善の方法を見いだそうとするフランキーの姿に救われる気がします…。
 キリスト教会や障害者の団体から衝撃のラストについて否定的な意見が相次いだということですが、この映画の場合は決して形で見るべきではないと思います。二人の固い絆が導き出した結果がたまたまそういうものだった……ということに尽きると言っていいのかもしれません。
 
 この映画に大きく貢献しているヒラリー・スワンク、クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマンの地に足がついた演技も見事で、時間の長さも忘れ映画に引き込まれてしまいます。とにかく久し振りに人間の深い内面の世界を描き、考えさせられたハリウッド映画でした。