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2014年4月26日土曜日

忘れられないアーティストたち フルトヴェングラー(2)






 













ベートーヴェンとの相性の良さ

 「ベートーヴェンの交響曲はフルトヴェングラーの指揮が圧倒的に素晴らしい」と前回このコーナーでお話ししました。
 では、「フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンはどこがそんなに凄いのか?」と思われる方も決して少なくないのではないでしょうか。

 何せ、デジタル録音の技術が急速に進歩して、SACDをはじめとするさまざまな高音質CDが出ている昨今に、半世紀以上前のしかもモノーラル録音の演奏を何を好き好んで聴くのだろう……と。しかし、あえて言います。フルトヴェングラーに関しては録音の古さを差し引いたとしても聴くべき価値がある!と断言してもいいでしょう。

 ベートーヴェンの第5番や第7番、第3番「英雄」等を初めて耳にされる方は、きっと他の指揮者との演奏のあまりの違いに驚かれることでしょう! その違いは形式や理屈ではない音楽という枠組を超えた強いメッセージや感動に尽きると思います。

 ベートーヴェンの交響曲は概ね古典派の形式を持っていますが、内容は苦悩や絶望の淵に沈みながらも、なりふり構わず克服しようともがき苦しむ満身創痍の人間感情を描いたものでした。とても古典の枠には収まり切らない懐の深い音楽ですよね。そのベートーヴェンの生きた人間感情を誰よりもダイレクトに崇高に伝えるのにピッタリだったのがフルトヴェングラーだったのです。

 胸の鼓動に合わせるように展開されるリズムやフレージング、テンポの緩急もまったく頭で考えられたものではなく、心の動きから生み出される自然なものだったのでした。
 フルトヴェングラーの指揮は1度たりとて同じだったということがなく、毎回新鮮な感動と驚きに満ちていたといいますから、生演奏はどれだけ素晴らしかったのでしょう……。



録音の古さを超えた名演奏

 特に第5の素晴らしさは圧倒的で、今なお録音の古さを通り越して心に響く大きな感動と説得力があります。 交響曲第5番「運命」は人間の心の葛藤や挫折、勝利への道程を描いた作品ですが、内容は既に古典の枠を大きく抜け出しているといっていいでしょう。そのようなアカデミック、古典の枠を大きく抜け出た「ベートーヴェン第5」の衝撃をフルトヴェングラーほど体感し、熱き血潮の叫びのように指揮した人はいませんでした……。

 まず驚くのが楽器の音色の生々しさと深い響きです。特に第一楽章で各主題が奏された後に現れるホルンの深く確信に満ちた響き!  展開部での壮絶極まりない響き!それは表面的に音が強いとか大音量というのではなく、明らかに団員が音楽に共感して発せられる生命の通った音、密度の濃い音色なのです。

 そして、楽章全体に漂うはかり知れない寂寥感!演出でも誇張でも何でもなく、フルトヴェングラーが音楽に没入しているために醸し出される人間性であり、芸術性なのです。それが曲に深い意味を与え、真に陰影に満ちた芸術的な響きを生み出すことを可能にさせたと言ってもいいかもしれません。

 第7番は序奏の表現が素晴らしく、この部分だけでも第7の醍醐味が充分に伝わってきます。冒頭の和音が奏されるとき、微妙なアインザッツのズレが生じるのですが、それがまったく気にならないどころか、かえって心の温もりや巨大な精神性を感じさせるのです! 
 フルトヴェングラー特有のスケール雄大で昂揚感に満ちた序奏のテーマが展開されると、次はどんな展開が待っているのだろうかと次第に胸がワクワクしてくるのを感じます。一般的に所要時間が長く、聴くのにエネルギーや集中力を要する交響曲ですが、フルトヴェングラーの手にかかると何とあっという間に時間が過ぎていくことでしょうか……。(次回に続く)





2014年3月22日土曜日

忘れられないアーティストたち  フルトヴェングラー(1)

           
















ベートーヴェンの唯一無二の魅力

 フルトヴェングラーがこの世を去ってから既に60年ほどの歳月が流れました。返す返すも残念なのは、彼がステレオ録音時代に入る前に世を去ってしまったということです。もしせめて、あと5年だけでも生きていてくれたならば、おそらくステレオ録音の名演奏も数多く残していてくれたのだろう……という無念な想いがいつも胸をよぎるのです。

 私にとってフルトヴェングラーという人は巨匠、天才指揮者という以上に、演奏芸術や指揮の奥深さを実感させてくれた水先案内人という印象が強いのです。彼が残した数々の名演奏の中でも圧倒的に素晴らしいのは、やはりベートーヴェンの交響曲でしょう。特に第9と第5、第3「英雄」は今もなお比較する盤がないくらい別格的な演奏と言っても過言ではありません。

 第9は有名なバイロイト盤をはじめとして、ライブ演奏も含めると何と8回も録音しており、いかにこの曲の本質を理解し、共感していたかを物語っているといえるでしょう。



第9の魅力を教えてくれたフルトヴェングラーの名演

 この曲の最大の関門は抽象的で神秘的な第1楽章です。この楽章が最初にあるため「第9は難しい」と敬遠される方も少なくないのではないかと思います。「哲学的」であるとか「形而上学的」と評されるように、理屈で音楽を表現しようとしても何も語りかけない難解な音楽で、多くの指揮者が表現に苦心惨憺するところなのです。    
 バーンスタインやカラヤンが指揮した第1楽章を聴いた時はまったく意味が理解できず、ますます第9は遠い存在になってしまったことを覚えています……(^_^;)。

 ところがフルトヴェングラーの第9の第1楽章はまったく違いました! それは今や伝説的とも評される有名なバイロイト盤との出会いでした。冒頭からまるで別世界で音が鳴っているような苦渋に満ちた重々しい響きやスケール雄大な独特の雰囲気に満たされ、一瞬にして私の心をつかんで離さなくなったのです…。
この時初めてベートーヴェンの第9の本当の偉大さを実感しましたし、また、こんなにも芸術的に第9を振る指揮者が世の中にいたのか!という驚きと感動が心の中を熱いもので満たしていったのです。

 以来、ベートーヴェンの第9の第1楽章は大好きになり、俄然フルトヴェングラーの芸術は心の奥深くに記憶されたのでした。 今なおこの第1楽章を深遠に意味深く伝えてくれた人は後にも先にもフルトヴェングラーしかいません。もちろん第2楽章のテンポの流動を伴う強靱な意志力の表出、時間の経過を忘れるような第3楽章の深い瞑想と崇高な祈り、そしてコーラスと管弦楽が渾然一体となった恐るべき第4楽章等の素晴らしさは言うまでもないでしょう! 

(第2回に続く)










2013年6月8日土曜日

忘れられないアーティストたち1  カール・リヒター

 

















強い求心力を持つバッハ演奏

 現在バッハ演奏が一つの過渡期を迎えているように思えてなりません……。
 1980年から2000年頃までのバッハ演奏はオリジナル楽器演奏の百花繚乱の時代でした。オリジナル楽器の演奏は1980年から90年代にピークを迎えたのですが、今はかつてのような輝きを失いかけているように思うのです。
 当時はアーノンクール、ガーディナー、レオンハルト、クイケン、ブリュッヘン、ゲーベル、ピノックらの出現が新しいバッハ演奏時代の幕開けを感じさせるのに充分だったのでした。透明感のある弦の響き、旋律線のくっきりと浮かびあがる楽しさ、スタイリッシュな造型等、まるで手埃にまみれた西洋音楽を綺麗に洗い落とした爽快さや新鮮さがあったのです。

 そのような古楽系のアーティスト全盛時代にリヒターの演奏スタイルは「もう古い」とか「厳しすぎて聴くのに疲れる」という声をよく耳にしたものです。でも、リヒターの演奏はもう古いと断定してもよかったのでしょうか?
 今改めてリヒターの演奏を聴くと、その求心力の強い確信に満ちたバッハが愛おしくて仕方ないのです。

 私がリヒターの演奏に最初に出会ったのはブランデンブルグ協奏曲の第2番(アルヒーフ)でしたが、この出会いは衝撃的でした。なにせ、バッハ演奏に対する価値観がこのときからすっかり変わってしまったのですから……。
 それまではカラヤンの指揮する演奏を格式があって美しい演奏だと思っていました。ところが、リヒターの指揮する2番は最初から違っていたのです。 冒頭に出てくるトランペットの朗々とした存在感のある響き、速めのリズムで輝きを放つように展開される充実した音楽……。気がついたらすっかりこの2番の虜になっていたのです! あの時ほど、「この違いは一体何だろう!」と痛感させられたことはありませんでした。


バッハへの深い愛情と畏敬の念

 リヒターはバッハ演奏のスペシャリストとしての位置づけがよくされるようです。改めて言うまでもなく、彼はバッハ演奏に全生涯を捧げた激烈な人生でした。特に1950年代後半から1960年代にかけては厳しく清冽な演奏が多く、音楽に対して一切妥協しないリヒターの一途な精神が強く反映されているのです。
 現在の指揮者たちとリヒターとの大きな違いはバッハへの深い愛情と畏敬の念ではないのでしょうか。特に声楽曲とカンタータはそのことを強く感じさせます。

 リヒターはバッハの作品の中でも、声楽曲(宗教曲)については大変なこだわりを持っていました。中でもカンタータ集の録音はやや地味なジャンルでありながら、他に比肩するものがないくらい高い境地にあったことは紛れもない事実でしょう。彫りの深い表現、あいまいさのない毅然とした合唱、宗教性と気品の高さが相まった崇高な雰囲気、バッハの精神性を歪みなく伝えようとする誠実な態度等、どれをとっても「なぜリヒターがカンタータを録音するのか」という必然性がいやというほど伝わってくるのです!

 そのリヒターが指揮したバッハの最高傑作は、1958年のミュンヘン・ヘラクレスザールで録音されたマタイ受難曲(アルヒーフ)に尽きます。「マタイ」はバッハの宗教性や芸術的な感性が高度な次元で結晶化した傑作ですが、リヒターの演奏はバッハの魂が脈々と語りかけるような驚くべき名演奏と言っていいでしょう。中でもミュンヘンバッハ合唱団の清楚で素直な歌唱は大きな魅力です。
実はミュンヘンバッハ合唱団の団員たちもリヒター自らがドイツ各地に足を運んでスカウトしたり募集したメンバーが軸になって構成されていました。そのような一から育てあげた手作りの味わいや温もりがこの録音からも聴きとることが出来ます。

 あくまでもプロ的な慣れや安定やバランス感覚といった要素を嫌ったリヒターですから、当然受難曲のような作品においては歌手たちも初々しい感動や哀感を絡ませ、一期一会のような名唱を繰り広げているのです!
 

聖堂のような凛とした佇まい

 エルンスト・ヘフリガーやフィッシャー・ディースカウ、マリア・シュターダー、ヘルタ・テッパー、キート・エンゲン……、とリヒターの宗教曲やカンタータの演奏で重要なパートを歌う歌手たちはほぼ毎回同じメンバーでした。気心がよく通じるメンバーで演奏することはリヒターの表現を忠実に反映させる上では必要なことだったのでしょう。
 彼らが口を揃えて言うのは、「リヒターには特別な雰囲気があった」と言うことでした。それが即ち「聖堂のような凛とした佇まい」ということだったのでしょう。

 バッハばかりが取りだたされるリヒターですが、もちろん他の作曲家の録音にも名演奏があります。その代表格がヘンデルということになるでしょう。オラトリオ「メサイア」、「サムソン」、オペラ「ジュリオ・チェザーレ」のような大作の録音も行い、それぞれに充実した演奏を残していますが、何と言っても素晴らしいのは「合奏協奏曲作品6」です。中でも作品6の第5番、9番あたりの剛毅な迫力、研ぎ澄まされた感性はこの作品のスタンダードと言っても良く、誰もが目を見張る名演奏と言えるでしょう。

 バッハの演奏で瞬く間に世界の檜舞台に立ったリヒターですが、もしリヒターがあと20年、いや10年だけでも長く生きていてくれれば、音楽地図は現在とはかなり違ったものになっていたことでしょう……。おそらくヘンデルのオラトリオの演奏やハイドンの交響曲、オラトリオ、ベートーヴェンの交響曲、モーツァルトの交響曲とレパートリーも拡げ、大いに楽しませてくれたに違いありません。

 古楽全盛の昨今、バッハの演奏はずいぶんと身近なものになってきました。しかし、「今なぜその曲を演奏するのか」という必然性が希薄なアーティストもいる中でリヒターの芸術に対するポリシーは高潔で傑出したものでした。バッハの音楽の魂の源流を追い続けたリヒターの演奏は今後も多くの人の心に生き続けることは確かでしょう…。