ロダンの人間としての弱さと
赤裸々な人間感情
先日、渋谷Bunkamura・ルシネマで『ロダン~カミーユと永遠のアトリエ』という映画を観てきましたので、簡単にその印象を綴っていこうと思います。
ジャック・ドワイヨン監督はこの作品で、彫刻家ロダンその人の内面の葛藤や歴史に埋もれた真実を浮き彫りにしようとしたのでしょうか……。『考える人』や『カレーの市民』、『地獄の門』といった日本でも有名な芸術家の輝かしい記録のドラマなのかと思って見ると、大いに肩透かしを食うかもしれません。
それほどこの映画はロダンの人間としての弱さと赤裸々な人間感情を吐露した映画なのです。
反面、なるほど……という名言も随所に散りばめられています。たとえば、「創作物は自らの生命のすべてを吹き込んだものであり、完成した作品は自分の分身、はたまた実の子か、それ以上の存在だということ」。ちょっとだけ聞くと綺麗事を言ってると思われるかもしれませんが、しかしこれが偽らざる芸術家の心境であり本分なのでしょう。
でも芸術家という職業はつくづく孤独な職業だな…と思いますね…。印象的だったのが、ロダン、モネ、セザンヌとフランス画壇の巨匠たちが顔合わせをした時に、ロダンが当時まだ売れていなかったセザンヌに向かって『諦めちゃいけない。創作に注いだ過程が尊いんだから』との内容で励ますシーンがあります。セザンヌにとって誤解を受け続けながらも、自力で名声を勝ち取ったロダンから薫陶を受けることは何よりの励ましになったのでしょう。
一度作品の魅力を理解してもらえれば、多くの人々の賞賛を受け、注目の的となリますが、世の人々の共通の認識から外れた作品を発表すれば、たちまち社会悪のように偏見の目を向けられ、罵声を浴びせかけられることがしばしばです。
つまり、名だたる巨匠でも精魂注いで出来上がった作品が吉と出るか凶と出るかは誰も予知出来ないし、知る由もありません。ロダンの場合、これに相当するのがフランス文芸家協会から依頼されたバルザック像なのでした。
バルザック像の制作がもたらした
大きな転機と負の連鎖
かなりの自信を持って制作した彫像だったのですが、予想に反して批評家たちの散々な非難を浴びてしまいます。そして皮肉にも何種類か作ったバルザック像は、いずれも彼の創作スタイルからして、明らかに時代を先取りした前衛的で意欲的な作品ばかりだったのです。
意外なのはロダンともあろう人が、この事を契機にすっかり意気消沈してしまうことです。もっと反骨精神があっても……と思ったりするのですが、芸術家として、あるいは人間としての素直な問いかけやポリシーを傷つけられた代償は想像以上に大きく、何とも言えない挫折感や虚脱感が彼の心身を蝕むようになるのです。
負の連鎖なのか、この頃から愛人のカミーユとの関係や妻との関係もギクシャクするようになり、仕事の面でもさまざまな支障をきたすようになります。一度ねじれてしまった心の歪みは大きな傷となって、私生活にも大きな影を落としていくことなのでしょうか……。
どちらかというと一般的な鑑賞者側の立場と言うよりも作り手側の視点に立った映画なのでしょう。とにかく、一度モノ作りに没頭したことがある人なら、この微妙な心境は少なからず理解できるかもしれません。
全体的にはバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタをバックに、意味深なナレーションをプロローグやポイントに挿入するのは雰囲気があって大変いいと思います。しかし、それがストーリーを展開する上で効果を発揮しているかというと、決してそうでもない感じだし、複雑な人間関係の描写が意外に淡泊なのも、どうも心に響いてこない一因になっているように思います。
もう少し視点を絞って、シンプルな作りにしたら、受けとめ方はかなり変わったかもしれません。それがちょっと残念ですね……。但し、芸術家の心の孤独や苦悩を大きく掘り下げようとした試みは大いに評価できますし、これを踏み台に新たな人物像に光を当てるのもいいのかもしれません。
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