2017年7月27日木曜日

ジェシー・ネルソン I am Sam











「障害」というハンディが
背負う十字架

一人の人間が身体的、あるいは精神的に「障害」というハンディを背負うということはどういうことなのでしょうか?

ハンディがあるということは、当然生きる上で様々な壁が立ちはだかります。
通勤・通学、人とのコミュニケーションをとること、教育を受けること、就労や様々な手続きであったり……、影響は多方面に及びます。

それだけでなく、気持ちを伝えたくても伝わらない疎外感や周囲の人々の偏見の目や心ない言葉がもたらす心の傷……。それはおそらく健常者が考える想像をはるかに超えているのではないでしょうか?

周囲の温かな眼差しや気遣いがあってこそ、当事者の道が切り開かれていくのはもちろんなのでしょうけど……。それよりも大切なのは一人の人間として一切の偏見や変な同情心を捨てて心を開くことでしょうし、また、心の支えになっていく以外にないのかもしれません。

映画「I am Sam」の主人公サムも鑑定によると「精神年齢七歳」の知能の持ち主だったのでした。しかし、映画の中で知的障害者という特別な響きからくる重苦しさや哀しさは感じません。
なぜなら、同じアパートの住人でサムの娘の面倒をよく見てくれるアニーの存在や同じ知的障害を持つ仲間たちとの交流がサムにとっては何よりも心の拠り所であり、癒やしとして描かれているからなのです。

彼らはちょっと摩訶不思議なコミュニケーションを交わすのですが、まるで自分のことのように相手の気持ちを汲んだり、お互いを認め合っているのです。映画ではこのやりとりが丁寧に、そしてユーモラスに描かれています! それが何やら微笑ましく、見ているほうも次第に素直な気持ちになっていくのです。


一人娘ルーシーに注がれる
ピュアな愛情

この映画で最も美しい場面はサムが一人娘ルーシーに注ぐまっすぐな愛情でしょう。
言葉足らずでぶっきらぼうなのですが、サムが語りかける言葉や想いはルーシーにとってピュアな愛そのものだったのでした。 ルーシーもそのことを実感していたのでしょう。

ある日、「お父さんは普通のお父さんとなぜ違うの…」と素直に問いかけます。それに対してサムが「こんなお父さんでごめんよ」とすまなさそうに答えます。 見ていて何とも胸が詰まる場面ですね……。このとき、幼な子の心に初めて知的障害という概念を明確に認識した瞬間だったのでした。

一方でサムの人生は波乱の連続です。オープニングで妻のレベッカが産まれたばかりのルーシーを置き去りにして失踪したり、最愛の娘ルーシーの誕生日に近所の子を押し倒したことが発端で誤認逮捕されたり、それを契機にサムの人生の歯車が少しずつ狂いはじめます。

そして遂には親としての資格や養育能力がないという理由で、司法の力でルーシーとの親子の絆さえも引き裂かれてしまうことになります。それならば親として誰が本当にふさわしいのか?という、いつの時代においても難しい究極の質問が見る者に突きつけられるのです。それにしても検事や弁護士たちの答弁や質問が、あまりにも健常者の視点でしか物事を見ようとしないことに愕然とするではありませんか……。

それは、ルーシーを取り戻すために立ち上がってくれた女性弁護士のミシェル・ファイファーや里親としてルーシーを預かることになったローラ・ダーンも同じで、最初は「知的障害者」という色眼鏡で見たのでした。

しかし、サムと一人の人間として向き合う中で、結局人を引きつけるものは世間体や処世術ではなく、人間としての素直さやピュアな感情や無償の愛でしかないことに気づくことになるのです……。

小気味よいテンポとウイットに富んだユーモアが秀逸ですし、ショーン・ペンを始めとする出演者たちの見事な演技にも魅了されます。また動きがあり、時折アップの表情をとらえるカメラワークも最高で、終始見る者を惹きつけてやみません。ともすればお涙頂戴になったり、暗くなりがちなテーマですが、ウイットに富んだユーモアと奇をてらわない演出がさわやかな感動を呼びます。