2015年2月5日木曜日

ヘンデル オラトリオ「エフタ」



















ヘンデル最後の
渾身の作

 ヘンデルはオペラだけではなく、オラトリオの分野でも約30曲ほどの粒ぞろいの作品を世に送り出しました。そんなヘンデルの事実上、最後のオラトリオが1752年に作曲された「エフタ」です。エフタを作曲した当時のヘンデルは体調がすぐれず、既に眼は視力を失い、失明寸前の状況にあったと言われています。「エフタ」は最後の力を振り絞った渾身の作と考えてもよろしいでしょう。

 このオラトリオは旧約聖書の士師記を題材にしており、ギレアデ人の指導者となったエフタ、そしてエフタの娘の宿命的な物語なのですが、脚本が少々書きかえられていて(書きかえられたというよりも結末が変わってしまった)、それが物足りないとおっしゃる方が多いのも事実です。
 聖書ではエフタが神と誓いを立て、「アマレク人との戦いに勝利したならば、最初に迎えに出た者をあなたにお捧げします」と約束したのでした。しかし戦いに勝利し最初に迎えにきた者が実は自分の娘だったことで、エフタはひどく悲嘆にくれるのですが、神との誓いは破ることはできず娘を神に捧げるという話です。 
ところがオラトリオの脚本では神が「生涯、処女であるならば許そう」という結末にすり替わっているのです。見方にもよるかもしれませんが、あまりにも都合のいい話にしてしまった感じはどうしても否めませんね……。

 では音楽はどうなのかというと、これが本当に素晴らしく、音楽的な充実感や深さは比類がありません。 
 ヘンデルのオラトリオには中期のサウル、メサイア、ベルシャザール、後期のソロモン、テオドーラ等のそうそうたる傑作がありますが、それらの作品以上に円熟した作曲技法と深い精神性が融合された最高傑作と言っても過言ではないでしょう。個人的にはサウルと並ぶヘンデルの名作だと思っておりますが……。
 劇中でのアリアや二重唱での崇高なメロディや精神的な深さは秀逸で、特に規模が大きく変化に富んだ合唱の素晴らしさは瞠目すべきものがあります!



稀有な生命力と立体感、
ヘンデルの真髄!

 「エフタ」の特徴としてあげられるのは並々ならない合唱への大きな比重でしょう! 劇中の要所要所に置かれた合唱はそれぞれが劇的で強い存在感があり、ドラマを展開する上で重大な役割を占めていることに気づかされます。ルネッサンスやバロック初期のミサ曲、オラトリオにありがちな美しい声の響きと陰影のバランスによって魅力が引き出されるという感覚はここにはもうありません。

 それは後年のロマン派にも通じるような生命力が漲っていますし、堂々として立体的な構造を持っているのです。ベートーヴェンはミサソレムニスでミサ曲の通念を打破した傑作を作っていますが、「エフタ」の合唱はミサ・ソレムニスに近い感覚を持ち、粗野で骨太なのですが、圧倒的な高揚感と生命力が内在しているのです。

 例えば、自由闊達で微動だにしないエネルギーを感じる第1部前半のNo more to Ammon's god and king、展開部の音楽の拡がりや発展性に優れ、力強く堂々とした第1部終曲のWhen his loud voice in thunder spoke、 叡智に満ちた響きが深い祈りと永遠の安息を実感させる第3部後半のTheme sublime of endless praise等が好例でしょう。

またアリアの崇高な美しさや深さも抜群で、第3幕のエフタのアリア"Waft Her, Angels"や同じく第3幕のイフィス(エフタの娘)のアリア "Ye Sacred Priests" と "Fairwell, ye Limpid Springs and Floods"あたりはオラトリオだけでなく、声楽史上に残る名曲といっても間違いありません。



ヘンデルのオラトリオの歴史に
燦然と輝くブッダイの名演

 特に合唱が素晴らしく全体の流れにメリハリを与えていますし、その表現からは強い主張と深い意味が伝わってきます。精緻で澄んだハーモニーとはちょっと違いますが、有機的で彫りの深い表現がこの作品にはピッタリです! おそらくブッダイは合唱がよく分かっている人なのでしょう。
 ブッダイ盤の合唱を聴いて、初めて魅力を実感するナンバーも少なくありません。特に第1部の最初の合唱No more to Ammon's god and kingは風格とゆとりすら感じられます。このような剛毅な表現は他の演奏ではまず聴けないかもしれません。
 ソリストではエマ・カークビーのいつもの澄み切った声とは違う意味深い歌唱に驚かされますが、魅力的であることに変わりはないでしょう。その他の歌手もまずまず理想的です。

 ブッダイは2012年にも新盤(K&K)を収録しています。手兵のマウルブロン室内合唱団の合唱は相変わらず素晴らしい出来栄えですが、全体的にソリストが弱いのと有機的に発展していくつながりに弱いため、1998年盤に比べると物足らない感じがつきまといます。しかし、旧盤と比べなければ、これはこれで充分にお薦めできる演奏かと思います。

むしろブッダイの新盤よりもハリー・クリストファーズ=シックスティーン(Coro)の引き締まった演奏をとりたいですね。ブッダイの旧盤のような剛毅さ、骨太な感じはありませんが、全体的に実によくまとまっています。特にシックスティーンの合唱は最高で、ブッダイ盤にはない精緻で澄んだハーモニーに酔わされます。しかもハーモニーが美しいだけではなく、それぞれに曲の本質をしっかりとらえたアプローチがなされていることに感心させられます!
ギルクリストやビッカリー、ベヴァンらを始めとするソリストたちも優秀で、それぞれが役どころにあった歌唱を見事にこなしています。