内面を見つめるピアノと
木管楽器の美しい響き
モーツァルトの数あるピアノ協奏曲の中でも、24番K491はかなり謎めいた異質の曲です。同じ短調の曲でもピアノ協奏曲20番K466が若々しい情熱と颯爽とした気品に彩られているのですが、K491は徹頭徹尾、心に深い傷を負った魂の発露のように聴こえるし、鎮魂曲のようにも聴こえるのです。
ここにはいつものモーツアルトの胸躍るメロディはありません。
第1楽章冒頭の暗い情念を漂わせる主題と管弦楽の悲痛な叫び……。そしてそれに伴うファゴット、クラリネット、オーボエ等の哀惜に満ちた響きは、まるで悲しみを押し殺した作曲家の心を映し出すかのようです。瞑想と悲嘆にくれる木管楽器の音色は時に哀しい小鳥のさえずりを想わせ、モノトーンの幽玄な世界をも表出していきます。
苦悩に満ちた表情は曲が進むにしたがってますます強くなっていきます。このような曲調であれば救いようのない暗さに埋没しかねないのですが、さすがはモーツァルト! 内面を見つめるピュアなピアノの響き、ピアノと木管楽器の対話や木管楽器の美しい響きが曲を深刻さや閉塞感から救い、いたるところに澄んだ穏やかな空気を届けてくれるのです!
涙に濡れながら
澄みきった心の世界を表現
第2楽章は魅力的な音や響きが満載なのですが、聴いていると無性に哀しくなる音楽です。
第1主題を「天国的なメロディだ」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、私にはとてもそうは思えません……。夢幻的な美しさをたたえたピアノと木管による第1主題は安らかな笑みさえ浮かべて進行していくのですが、この時すでに涙に濡れながら立ちつくしているモーツァルトの姿が目に浮かんでくるようで仕方がないのです。ただ、この主題からはとてつもないモーツァルトの優しさや澄み切った心の世界を感じるのも事実ですね……。
この主題は中間部や展開部に進んでいく中でさまざまな形に姿を変え発展していきます。音楽がぐんぐんと拡がりを増していくのも見事ですが、淡い水彩画のような木管楽器とピアノとの美しい絡みが特に印象的です。
第3楽章はひそやかに曲が開始されますが、音楽が冗長な経過句や主題、技法等によって流れが遮断されたり、停滞することは一切なく、音色、リズム、構成等すべてにおいて終楽章を飾るにふさわしい引き締まった名作です。
8つの変奏曲で構成されていますが、それぞれの変奏曲はあらかじめ音楽の到達点を知っているかのように一直線に進んでいきます。ピアノや木管楽器、管弦楽が有機的に絡まり、発展を重ねる中での音楽からあふれ出る崇高な情感や詩情は比類がありません……。
8つの変奏曲で構成されていますが、それぞれの変奏曲はあらかじめ音楽の到達点を知っているかのように一直線に進んでいきます。ピアノや木管楽器、管弦楽が有機的に絡まり、発展を重ねる中での音楽からあふれ出る崇高な情感や詩情は比類がありません……。
また、モーツァルトらしい愉悦感も随所に聴ける魅力作といってもいいでしょう。ここでも木管楽器が奏でる妙なる調べは、大きな効果を生み出しています。
内田とハイドシェックの
味わい深い名演
K491はピアノと管弦楽のバランスをどのように表現するのか難しい曲です。どちらか一方に偏りすぎても曲の本質を生かせないという事実があるのでしょう。
内田光子がジェフリー・テイト=イギリス室内管弦楽団(フィリップス)と組んだ演奏とエリック・ハイドシェックがハンス・グラーフ=モーツァルテウム管弦楽団(ビクター)と組んだ演奏が双璧の名盤です。
特に内田盤は第1楽章、第2楽章の情感の深さと木管楽器の美しさに魅了されます。内田のピアノは表情に立体的な奥行きがあり、テイトの指揮も緊迫感あるドラマを展開して、この曲を聴く醍醐味を目一杯味わせてくれます。
それに対してハイドシェック盤は自在な流れと響きでモーツアルトの音楽の素晴らしさを伝えようとしています! その結果、第3楽章はストレートな進行にもかかわらず、あふれるような音楽の魅力を伝えることに成功しています。グラーフの指揮する管弦楽は悪くはないのですが、メリハリにやや乏しく音楽の美しさや意味が伝わりきらないところも多々見られのがちょっと残念です。