2016年3月27日日曜日

モーツァルト ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482
















モーツァルトのピアノ協奏曲の
大きな飛躍と転機、K482

 ピアノという楽器は私たちが日常的に聴き慣れているせいか、どのような音楽作品で使われようとも 違和感がありませんし、不思議と気持ちに馴染みやすい感じがします。
 そのピアノという楽器の魅力と面白さを遺憾なく引き出した作曲家といえば、モーツァルトを措いて他にいないのではないでしょうか。
 特にピアノ協奏曲はモーツァルトにとって自身のライフワークと言われるくらいに魅力いっぱいです。それはただ単に作品として優れているということではでなく、モーツァルトがピアノという楽器の特性を知り尽くしていることと、豊かな感性と息づかいが聴く者の心に無理なく響くからなのでしょう……。そんなモーツァルトでさえも、ピアノ協奏曲で飛躍的な深化を遂げた時期がありました!

 それが何を隠そう、ピアノ協奏曲第22番K482からだと言っても過言ではありません。なぜK482からなのかということですが、たとえば前作21番K467の第2楽章アダージョとK482のアダージョを比べてみてください。「これが同じ作曲家なのか!?」と思うほど、そのあまりの違いに唖然としてしまうことでしょう。


驚くほどの拡がりと豊かさ、
妥協なき作品

 サロン風の穏やかで上品な音楽として作曲されたK467の第2楽章アダージョに比べ、K482のアダージョは終始、深い慟哭や孤独、心の翳りがテーマとして扱われているのです。おそらく、モーツァルトが作品の中でこんなにも自分の内面を深くえぐり出すことはなかったのではないでしょうか。
 特にピアノのモノローグはどこまでも内省的ですね……。しかし管弦楽がピアノを温かく包みこむのと、クラリネット、ファゴット、フルートなどの木管楽器の響きがパステルカラーのような色とりどりのニュアンスを与えてくれるために、暗い悲壮感で覆われることがないのです。

 また、この曲の見事さは、3楽章がいずれも充実していることでしょう。旋律の魅力、オリジナリティあふれる技法、色彩感iいっぱいの楽器構成、陰影の対比の見事さ等が多彩な表情を生み出し、作品として素晴らしいコントラストを生み出しているのです!

 第1楽章の推進力にあふれたテーマは力強さと流麗さ、輝きとデリカシーを併せ持った素晴らしい楽章で、特にオーケストラパートの立体的な響きは目を見張るものがあります。ピアノにぴったりと寄り添うオーケストラの呼吸の一体感も最高だし、中間部の緊張感や深さは効果を狙っていないのに凄いというしかありません。

 比類なき第2楽章の後に続く、第3楽章もまた「素晴らしい!」の一言に尽きます。ピアノの無邪気な微笑みと第2楽章で活躍した木管楽器がここでも優しさと潤いに満ちた抜群の味わいを醸し出します!中間部ではちょっぴり哀愁を湛えながら、忘れがたい印象を残しつつ曲は終了します……。


バレンボイム
新旧の名盤

 この作品では、バレンボイムがピアノと指揮を担当したベルリンフィルハーモニーとの演奏(TELDEC)をまず挙げたいと思います。バレンボイムのピアノは1小節ごとに表情が変化する類い希な雄弁な響きを表出しています。特に第2楽章での深い感情表現とデリカシー、間合いは最高と言っていいでしょう。
 それだけでなくベルリンフィルの響きの豊かさ、まろやかさは音楽の核心を余すところなく汲んでいて、曲の魅力を再認識させるのに充分です。
 そして、なんといっても木管楽器の魅力は絶大で、随所で甘美な夢を与えてくれます。唯一欠点をあげるとすれば、ベルリンフィルがうますぎるくらいうまいので、「人間味が薄い気がする」と思われても決して不思議ではありません。それをどうとらえるかはお一人お一人の好みになってくるでしょう……。

 バレンボイムには1970年代にイギリス室内管弦楽団を指揮した録音(EMI)もあります。
 バレンボイムの若々しく覇気に満ちたピアノが素晴らしく、イマジネーション豊かな表現が胸に響きます。イギリス室内管弦楽団の響きはベルリンフィルほど立体的な響きではありませんが、より即興曲でセンス抜群の味わいを堪能することが出来るでしょう。

 イギリス室内管弦楽団は昔からモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏に関しては定評があり、実際マレイ・ペライア、内田光子、そしてバレンボイムとの旧盤と、いずれも甲乙つけがたい名盤を残しています。オーケストラの響きがモーツァルトとの協奏曲に相性が良いのか、柔軟性があるのかわかりませんが、これも何か理由があるのでしょうか……。




2016年3月16日水曜日

マティス 『ダンス』







絵画の新たな
可能性を導き出す

 小学生の頃だったでしょうか……。この絵を初めて見たときは本当にビックリしたものでした。「こんなにアッサリ、すっきり絵をまとめちゃっていいんだろうか……」と。その後、「絵の価値、意味って一体何なんだろう」としばらく悩んだものです。

 『ダンス』を見ていただければ、お分かりのように、背景を想わせる壁面や事物は一切存在しません。代わりに濃いブルーとグリーンの色面を分割しているだけです。またこの絵の唯一のモチーフでもあるダンスをする裸婦たちの顔の表情や服装、背丈の違い、陰影などはことごとくカットされているのです。

 マティスの『ダンス』は、徹底的に絵の要素から余分な情報を排除して、本当に伝えたい要素だけを抽出しているのです。つまり、絵として成立するための必要最低限の核心だけを的確に表現した絵と言っていいでしょう! まさに絵の表現の原点をみるような気がいたします。このような絵を描くことは画家としては大きな挑戦ですし、冒険でもあったことでしょう。それにしても何という潔さでしょうか!

 裸婦たちが手をつなぎ連なる形は、どことなく唐草模様を彷彿とさせ、装飾的な効果を生み出しています。そして忘れてはならないのが、画面全体にみなぎる動的なリズムと強烈な色彩のエネルギーでしょう。私たちはこの絵から単純な線と形、色面がもたらす絶大な効果を実感せざるを得なくなるのです。
 生々しい人間感情に敢えて触れないで、線と構図、色彩が繰り広げる自由奔放な感覚を絵に注入出来たのは、やはりマティスという鋭敏な感性の持ち主だったからなのでしょう。




2016年3月5日土曜日

ジェリコー 『メデューズ号の筏』










時代とともに大きく変化する
ライフスタイル

 最近は何かにつけて便利な時代になりましたね……。今や携帯電話ならぬスマートフォンが日常生活に欠かせない必需品になってきました。しかもこれ一台で病院の予約や映画のチケットの購入も完了してしまうという便利さです! まさに情報化社会にふさわしいツールと言えるでしょう。

 こんなことは20年前では考えられなかったことですし、恐るべき技術の進歩といっていいでしょう。こんなに便利になってしまうと、もはやスマホのない生活はちょっと考えられません。

 そのような意味でも、人間って、一度便利さに慣れてしまうと、後戻りすることは困難ですね……。昨日よりも今日、今日よりも明日というように絶えず便利になる道を求めてしまうからです。

 それと同様にテクノロジーの発展によって、生活スタイルも大きく変わってきました。それはアート、芸術を創作、鑑賞する上でも同様のことが起こっていると言っていいでしょう。


シャッターチャンスを
超えた『メデューズ号の筏』

 かつて、写真が一般化する前の時代(20世紀以前)は絵画が生活の一コマを忠実に伝える大切な表現ツールでした。

 たとえばナポレオンの戴冠式を圧倒的なスケールで描いたダビットや、ショパンの感性豊かな表情を的確に捉えたドラクロワ、自然のありのままの情景を臨場感豊かに描いたクールベ、それぞれの画家はポリシーやコンセプトが異なるとは言え、写真とはひと味もふた味も違う表現方法で人々を魅了したのです。

 おそらく現在とは比べものにならないくらい情報伝達手段としての絵画の需要は高かったでしょうし、人々の様子や美しい自然、災害・事故、事件、重大な行事などを留めておくためにはなくてはならないものだったのです……。

 そのような中で、今で言うスクープ報道写真的な効果で人々を驚かせたのが、テオドール・ジェリコーが描いた『メデューズ号の筏』でしょう。これは当時社会的な問題にもなった1816年のメデューズ号座礁後の顛末を描いた絵です。
 船はモロッコ沖で座礁した後、船に取り付けてあった救命艇を海に浮かべたものの、わずかな人数しか収容できず、船長を始めとする船員たちで満杯(つまり乗客は置き去り?…)になってしまいました。残された乗客たちは自力で筏を作ったものの、漂流する150名(生存者は15名だけだった)は地獄のような光景を見ることになったのです。

 実際この絵は画家自身が事故の現場を訪れたり、生存者に当時の状況を詳細に確認したりするなど、綿密な下調べをして描いたという記録が残っています。容赦なく襲ってくる風や波の恐怖や尋常ではない人々の状況がリアリスティックなタッチと共に異様な緊迫感をもって伝わってくるではありませんか……。

 そのような画面づくりの事細かな計算とさまざまな要素が絡みあって、この絵を不朽の名画に押し上げていることは言うまでもないのですが、それはカメラのシャッターチャンスにはない崇高な哲学と微動だにしないコンセプトがあるからでしょう…。


画家としての品性と
誇りを失わなかった名画

 もし、ジェリコーが当時の様子を事実に忠実に、赤裸々に描いたとしたらどうなったでしょうか?おそらく、おぞましい光景を写しとった見るも無残な風俗画に成り下がってしまったことでしょう。しかし、ジェリコーは恐ろしい事実を描ききったにもかかわらず、画家の良心、人間としての誇りと品性を決して失わなかったのです。

 それは痩せ細って痛々しい姿をさらす肉体を描くのではなく、ミケランジェロやルーベンスのように筋骨隆々で力感あふれる肉体の人々を描いていることでも明らかです。
 また、筏の上部で海の彼方を指さす人の姿からは一筋の希望を感じるし、未来へ繋がっていく予兆も感じさせるのです。
 写真でこのような包括的な表現をすることは限界があるし、実際不可能でしょう。悲惨な光景を描きつつも、彼は彼なりに一本筋を通しているのです。

 ジェリコーの絵は人々に悲惨な現実を強く訴えるという社会派的な要素を色濃く滲ませた作品なのですが、手法としてはあくまでも古典的でモニュメンタルな手法を貫いています。そのような制作姿勢が絵画としての普遍性を際だたせ、名画としての評価を不動のものにしたと言ってもいいでしょう。


2016年3月1日火曜日

メト・ライブ・ビューイング プッチーニ『トゥーランドット』を見て










優れた『トゥーランドット』の舞台!

 先日、メト・ライブビューイングの『トゥーランドット』を見に行ってきました。一言で言えば、素晴らしい舞台でした。オペラの原点に戻ったような感覚を味わうことができましたし、久しぶりに上質なエンターテイメントを堪能できた喜びでいっぱいです。特に絢爛豪華な舞台セットと演出には感動いたしました! やはりオペラはこうでなくてはならないですね……。観客に夢とロマンを与えてくれないと見る面白さが半減してしまうように思います!

 メトロポリタンオペラの『トゥーランドット』公演は30年来、ゼフィレッリの演出が続いているそうで、舞台のセットも大切に保管しながら上演されてきたようですね。それもわかるような気がします。それほどこの演出は他の追随を許さないくらい素晴らしく、好評だったのでしょう。


秀逸な演出と
美術セット

 時代考証を元にして、古代王朝時代の中国のイメージを実に美しく陰影のある舞台にしているし、とにかくディテールに至るまで手が込んでいる感じです。たとえば、2幕の宮廷シーンの荘厳で立体的な美術セットや細かなアプローチにはため息が出てしまいます。
 何より音楽と舞台とスートーリーが一体になって溶け込んでいるし、これなら観る者は無理なく『トゥーランドット』の物語を心に留められますね…。

 最近、新演出のオペラの舞台が流行しています。でも、どうか奇をてらった自己満足的な演出だけはご勘弁いただきたいものです……。結果的にはオペラと観客との距離を広げるだけかもしれませんので……。

 ソリストは充分魅力的な強力布陣です。
 中でもカラフ、リュー、トゥーランドットの主役3人の歌は一様に素晴らしく、聴きごたえが充分でした! 特にリュー役のアニータ・ハーティッグは細かな感情表現が心に響いたし、カラフ役のマルコ・ベルティの堂々とした歌唱力、トゥーランドット姫役のニーナ・ステンメの有無をも言わせぬ迫力と圧倒的な存在感も印象的でした。



2016年2月24日水曜日

モーツァルト オペラ『フィガロの結婚』

















人を信じる
温かなまなざし

 「モーツァルトの音楽は人を幸福に導く」と、以前このブログで書いたことがありました。

 それにはいくつかの理由が考えられます。まず最初にあげられるのが、モーツァルトの音楽は非常に徳性が高いことです。それは音楽から自然に放射される人格と言ってもいいでしょう……。こんなことを言うとたぶん誤解されるかもしれません。というのも、「あんな軽いノリの音楽を書いているのに何が人格だよ」とか、「モーツァルトが書いた手紙の文面はふざけすぎるくらいふざけてるじゃないか!」と反発を受けることが必至だからです。

 しかし音楽は言動で価値が決まるのではありません。モーツァルトの言動云々よりも、音楽はその人の内面の本質を鏡のように映し出すといいます。

 おそらくモーツァルトほど愛とウイットにあふれた音楽を作った人はいないでしょう。人を信じる温かなまなざし………。それは彼の音楽に共通するもので、心の垣根を取り払い、あらゆるものを無条件で受けとめてくれる音楽と言っていいかもしれません。

 もう一つは音楽に悲哀に満ちた衣を被せなかったということです。ともすれば芸術家が生活苦に陥ったり、絶体絶命のピンチに立たされると、作品もそれに比例して悲観的になりがちです。 しかしモーツァルトの場合はどんなにシリアスなテーマの音楽であろうと、小鳥がさえずるように自然な微笑みを湛え、限りなく透明感あふれる曲を作り続けました。

 あくまでも聴き手の心を窮屈にするという概念がないのでしょう……。それ自体がモーツァルトの音楽の徳性の高さを意味するものなのかもしれません。


モーツァルトの
すべてが詰まった
名曲オペラ

 モーツァルトと言えばオペラ、オペラと言えば『フィガロ』というくらい「フィガロの結婚」を作曲した当時のモーツァルトは心身ともに充実していた時期でした。

 ここにはモーツァルトの音楽のすべてがあるといっても過言ではありません。
 特にオペラを作曲する時のモーツァルトは交響曲や管弦楽を作曲する時と明らかに違います。 彼の持って生まれた人を喜ばせる天分はオペラにおいてこそ最高に発揮されたと言っていいでしょう。中でもフィガロはモーツァルトがオペラ作曲家としての真髄を極めた傑作で、自身のオペラ作曲の原点になる作品です。

 『フィガロ』の台本は基本的にドタバタの恋愛劇です。モーツァルトはこの貴族社会の恋のアバンチュールをユーモアを加えて痛烈に皮肉る一方で、ビクともしない音楽美に貫かれた人間愛を描いてみせたのです。
 ウィーンでは上演禁止になったり、「倫理的に問題がある」と槍玉にあげられるほどの酷評ぶりでした。しかし、プラハの公演では聴衆に熱狂的に迎えられ、この大人気を契機に交響曲第38番『プラハ』が作られたほどです。

 『フィガロ』の音楽はすこぶるエネルギーにあふれ、輝きを放っているため、劇中の様々な性癖をもった登場人物たちが何とも愛おしく魅力的な人物像として浮かび上がってくるではないですか……! ユーモアたっぷりの人物描写や目まぐるしい転調、火花が飛び散るような重唱等の音楽的な効果はモーツァルトの手にかかると、破綻のない純音楽的な魅力として語りかけてくるのです!

 これは夢のような大人のメルヘンと言っても差しつかえないでしょう。モーツァルトの音楽は終始明るく微笑みかけてくるですが、その反面、ドキリとするような陰影に富んだドラマを展開し、改めてこのオペラの懐の深さを痛感させるのです。

 『フィガロ』の上演に接すれば接するほど、音楽のもつ「素の魅力」、「屈託のない音楽美」に魅了されることでしょう。 



やりたいことをやり尽くした
クルレンツィスの名盤

 『フィガロ』は人気作であるため、昔から録音には事欠きません。指揮者にとっては一度は振ってみたいし、歌手にとっても一度は歌いたい作品であることは間違いありません。しかし最近までこれが決定盤と言える録音がなかったのです。ところが、最近あらゆる面で唸るしかない凄い演奏が出てきました!

 それが、テオドール・クルレンツィス指揮ムジカ・エテルナのCD(ソニー・クラシカル)です。これは新時代の『フィガロ』演奏の幕開けと言っても決して過言ではないでしょう。
 これを聴いて、改めて「フィガロの結婚」に込められたモーツァルトのメッセージの深さを実感いたしましたし、このオペラの尽きない魅力が甦ってきたのです。

 とにかく一切既成概念にとらわれない演奏と解釈は見事です。たとえば第一幕の終結部で伯爵がケルビーノに「スザンナを抱いてやれ」と言う場面の冷やかしに強烈な口笛を入れてメリハリをつけたり、チェンバロに代わってフォルテピアノを使い全体の構成をより自然に聴かせる工夫をしたり……と、自由自在なのです。オペラでここまでやるの?というくらい全編徹底的にやりたいことをやり尽くしている感じです!

 しかし、クルレンツィスの狙いは奇をてらうことではありません。あくまでも埃にまみれたフィガロの演奏に新鮮な驚きを呼び起こし、誰もが納得する演奏を成そうという強い気概がひしひしと伝わってくるのです!
 クルレンツィスが曲の本質をがっちりとつかんでいるために、大胆な表現を随所にとりいれていてもまったく違和感がありません。

 クルレンツィスの意思が隅々まで浸透している結果なのか、オーケストラの響きにも立体的な格調高さと躍動感がありますし、表情の変化の自在さも驚くばかりです。ノンヴィブラートで歌う歌手たちの魅力!また、それぞれの歌手たちの抜群のセンスと絶妙な感情表現にも大いに惹かれます。

 ベームの指揮は甘美で優雅な空気感、シンフォニックな響きの表出等々、『フィガロ』に必要な要素をことごとく兼ね備えていて見事です。終始安心して聴ける演奏といっていいでしょう。
 また、キャスティングが超豪華です。フィガロにヘルマン・プライ、スザンナにエディト・マティス、伯爵にディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、伯爵夫人にグンドゥラ・ヤノヴィッツという当代きっての実力派歌手が勢揃いで、現在このようなオールスターキャストを揃えるのはほぼ不可能に近いのかもしれませんね…。



2016年2月13日土曜日

メト・ライブビューイング  プッチーニ「トゥーランドット」




プッチーニの晩年の名作




 オペラの殿堂ニューヨーク・メトロポリタンオペラと映画配給会社の松竹が組んだメト・ライブビューイングはどれも見逃せないプログラムばかり!

 2月27日からの1週間はプッチーニの晩年の名作「トゥーランドット」が登場します。この上演で見逃せないのが演出を担当したフランコ・ゼフィレッリ。ゼフィレッリといえば映画「ロミオとジュリエット」「ブラザー三シスタームーン」をはじめとする繊細な人間感情や情景描写に秀でた監督さんですが、この「トゥーランドット」ではどのような効果を生み出すのか非常に楽しみです。
 時代考証に基づくオーソドックスな舞台を常とする人ですから、当然この舞台も絢爛豪華で夢のようなひとときを約束してくれることでしょう…。 






上映期間:2016年2月27日(土)~3月4日(金)

指揮:パオロ・カリニャーニ 
演出:フランコ・ゼフィレッリ
出演:ニーナ・ステンメ、アニータ・ハーティッグ、
   マルコ・ベルティ、アレクサンダー・ツィムバリュク
上映時間(予定):3時間20分(休憩2回)
[ MET上演日 2016年1月30日 ]
言語:イタリア語




 流浪の王子の熱い愛が「氷の姫君」の心を溶かす!壮大なスケール感と涙を誘う名旋律が同居するプッチーニの遺作。巨匠ゼフィレッリが演出したMET屈指のスペクタクルな舞台を、映画館の大スクリーンで堪能!王子カラフの大人気アリア〈誰も寝てはならぬ〉に酔い、女奴隷リューの辞世のアリア〈氷のような姫君の心も〉に涙する快楽はオペラならでは。当代一のトゥーランドット歌いニーナ・ステンメら粒ぞろいのキャストも見(聴き)逃せない。
伝説の時代の古代中国、北京。皇帝の姫君トゥーランドットは絶世の美女として知られているが、求婚者に謎をかけ、解けないと殺してしまう残酷な姫君でもあった。国が滅んで流浪していたダッタン国の王子カラフは、辿り着いた北京の町で、生き別れになっていた父ティムールと再会する。喜びもつかの間、トゥーランドットを一目見て恋に落ちたカラフは、ティムールとお付きの女奴隷リューの制止もきかずに謎に挑戦するが…。(公式サイトより)




2016年2月7日日曜日

モーツァルト ピアノソナタ第11番イ長調K.331








「トルコ行進曲」の
驚くべき魅力と魔法

 モーツァルトのピアノソナタと言えば、ほとんどのかたが終曲に「トルコ行進曲」を持つK331をあげるのではないでしょうか。確かに「トルコ行進曲」はモーツァルトのピアノの代名詞のような作品で、今なお多くの人々を魅了し続けていることは間違いありません。

 トルコ行進曲を聴けば聴くほど、その凄さに圧倒されます。改めてモーツァルトでしか作れない唯一無二の音楽と言えるでしょう! 

 まず、トルコ風のテーマが何とも不思議で可愛いらしいこと……。一小節ごとに表情が変貌し、生き物のように自在に五線譜を駆け巡る音楽のエネルギーは「魔法のよう」としか言いようがありません。
 変幻自在のリズムと真剣かつ果敢な遊び心が溶け合って、音楽は燃え盛る太陽のようにエネルギーを全開させながら終結していくのです!

 しかもその中にあふれる茶目っ気と無垢な魂の魅力といったらどうでしょう……。まさにモーツァルトならではの魅力満載で、一度聴いたら虜になってしまうのも無理はありません。


変奏曲の先駆をなす
豊かな感情表現

 「トルコ行進曲」の天才的な楽曲もさることながら、もう一つ目を惹くのが第一楽章の変奏曲の見事さです。おそらく変奏曲をこれほど大々的にピアノソナタに取り入れたのはモーツァルトが最初なのではないでしょうか。

 安らぎと愛に満ちた主題が開始されると、その後は調やリズム等を変形させながら6つの変奏曲が流れていきます。それぞれに豊かな感情が込められており、生き生きとした表情が浮かび上がってくるのです。

 変奏曲を得意とするシューベルトは即興曲作品142の第3楽章アンダンテで大変に素晴らしい変奏曲を残してくれましたが、モーツァルトの第一楽章はその原形となるものだったのでしょう。



クラウスの自信に
満ちた演奏

 演奏の筆頭に挙げたいのが、リリー・クラウスのステレオ録音盤(CBS)です。何よりも気品にあふれています。そして揺るぎない自信に満ちていて、モーツァルトの無垢な魂を誠実に反映させた演奏といっていいでしょう。

 つまり演奏にまったく迷いがないのです。頭で考えられて、どうにか意味づけをしたという演奏ではなく、あくまでも身体に染みこんでいる様々な想いを体現した演奏なのです!
 特にトルコ行進曲は自在にテンポを変えているのですが、少しも不自然なところがありません。モーツァルトの音楽の魅力を知り尽くしたクラウスだから出来る演奏なのかもしれません。

 またとかく無味乾燥になりやすい第一楽章の変奏曲を造型を崩さず、これほどまでに豊かな感情を込めて弾いたピアニストは他にいないのではないでしょうか……。