モーツァルトのピアノ協奏曲の
大きな飛躍と転機、K482
ピアノという楽器は私たちが日常的に聴き慣れているせいか、どのような音楽作品で使われようとも 違和感がありませんし、不思議と気持ちに馴染みやすい感じがします。
そのピアノという楽器の魅力と面白さを遺憾なく引き出した作曲家といえば、モーツァルトを措いて他にいないのではないでしょうか。
特にピアノ協奏曲はモーツァルトにとって自身のライフワークと言われるくらいに魅力いっぱいです。それはただ単に作品として優れているということではでなく、モーツァルトがピアノという楽器の特性を知り尽くしていることと、豊かな感性と息づかいが聴く者の心に無理なく響くからなのでしょう……。そんなモーツァルトでさえも、ピアノ協奏曲で飛躍的な深化を遂げた時期がありました!
それが何を隠そう、ピアノ協奏曲第22番K482からだと言っても過言ではありません。なぜK482からなのかということですが、たとえば前作21番K467の第2楽章アダージョとK482のアダージョを比べてみてください。「これが同じ作曲家なのか!?」と思うほど、そのあまりの違いに唖然としてしまうことでしょう。
驚くほどの拡がりと豊かさ、
妥協なき作品
サロン風の穏やかで上品な音楽として作曲されたK467の第2楽章アダージョに比べ、K482のアダージョは終始、深い慟哭や孤独、心の翳りがテーマとして扱われているのです。おそらく、モーツァルトが作品の中でこんなにも自分の内面を深くえぐり出すことはなかったのではないでしょうか。
特にピアノのモノローグはどこまでも内省的ですね……。しかし管弦楽がピアノを温かく包みこむのと、クラリネット、ファゴット、フルートなどの木管楽器の響きがパステルカラーのような色とりどりのニュアンスを与えてくれるために、暗い悲壮感で覆われることがないのです。
また、この曲の見事さは、3楽章がいずれも充実していることでしょう。旋律の魅力、オリジナリティあふれる技法、色彩感iいっぱいの楽器構成、陰影の対比の見事さ等が多彩な表情を生み出し、作品として素晴らしいコントラストを生み出しているのです!
第1楽章の推進力にあふれたテーマは力強さと流麗さ、輝きとデリカシーを併せ持った素晴らしい楽章で、特にオーケストラパートの立体的な響きは目を見張るものがあります。ピアノにぴったりと寄り添うオーケストラの呼吸の一体感も最高だし、中間部の緊張感や深さは効果を狙っていないのに凄いというしかありません。
比類なき第2楽章の後に続く、第3楽章もまた「素晴らしい!」の一言に尽きます。ピアノの無邪気な微笑みと第2楽章で活躍した木管楽器がここでも優しさと潤いに満ちた抜群の味わいを醸し出します!中間部ではちょっぴり哀愁を湛えながら、忘れがたい印象を残しつつ曲は終了します……。
バレンボイム
新旧の名盤
この作品では、バレンボイムがピアノと指揮を担当したベルリンフィルハーモニーとの演奏(TELDEC)をまず挙げたいと思います。バレンボイムのピアノは1小節ごとに表情が変化する類い希な雄弁な響きを表出しています。特に第2楽章での深い感情表現とデリカシー、間合いは最高と言っていいでしょう。
それだけでなくベルリンフィルの響きの豊かさ、まろやかさは音楽の核心を余すところなく汲んでいて、曲の魅力を再認識させるのに充分です。
そして、なんといっても木管楽器の魅力は絶大で、随所で甘美な夢を与えてくれます。唯一欠点をあげるとすれば、ベルリンフィルがうますぎるくらいうまいので、「人間味が薄い気がする」と思われても決して不思議ではありません。それをどうとらえるかはお一人お一人の好みになってくるでしょう……。
バレンボイムには1970年代にイギリス室内管弦楽団を指揮した録音(EMI)もあります。
バレンボイムの若々しく覇気に満ちたピアノが素晴らしく、イマジネーション豊かな表現が胸に響きます。イギリス室内管弦楽団の響きはベルリンフィルほど立体的な響きではありませんが、より即興曲でセンス抜群の味わいを堪能することが出来るでしょう。
イギリス室内管弦楽団は昔からモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏に関しては定評があり、実際マレイ・ペライア、内田光子、そしてバレンボイムとの旧盤と、いずれも甲乙つけがたい名盤を残しています。オーケストラの響きがモーツァルトとの協奏曲に相性が良いのか、柔軟性があるのかわかりませんが、これも何か理由があるのでしょうか……。
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