2015年2月25日水曜日

レンブラント 「聖家族、または指物師の家族」











血が通い安らぎに満ちた
静謐な空間

 とても魅力的な絵ですね……。
 一般的に絵を描く場合は形をしっかり捉えて、色彩と構図のバランスをとりながら描いていくのが定石なのでしょうが、この絵はちょっと違います。形や色彩で描き分けるというよりは光の温もりや明度、彩度、陰影の多様な変化によって描き分けているというほうが正しいと思います。

 しかし、誰もがこのように絶妙な陰影の描き分けが出来るわけではありません。 もちろん技術的に陰影を描き分けたり、ドラマチックな空間を表現することは出来るでしょう。ただしこの絵のように血が通い、安らぎに満ちた静謐な空間を生み出すことは極めて難しいことですね。

 「本物の絵」と称されるものがフォルムや色彩といった枠組みを超えた感動の追体験を表現した絵であるとするならば、レンブラントの絵はまさにこれです。
 それにしても何という厳粛でかつ温かい色彩のトーンに満たされた絵なのでしょうか……。絵の端々から画家の対象に寄せる愛情やメッセージが伝わってくるようです。
 イエス・キリストに授乳するマリアとそれを見守る老婆の姿がまるで日常の光景のごとく描かれているのですが、それがかえって見る者に親近感と深い共感を呼び起こしているところが興味深いではありませんか。

 この絵を眺めていると途轍もなく大きなものに包み込まれるような安心感がありますし、緩やかに流れる濃密な時間と空間の意識が絵の中にしっかりと息づいていることが分かりますね。

 「聖家族、または指物師の家族」は現在(2015年2月~6月)東京・六本木の国立新美術館で開催されている「ルーブル美術館展」に展示されているとのことです。こんな名画を間近で見る機会があるなんて…。 これは何を差し置いても見るしかないでしょう!



2015年2月19日木曜日

エルガー  愛の挨拶










絶妙な転調
美しい中間部

 この曲をはじめて知ったのは、確かFM放送でオーケストラ版が流れていたのを聴いたときだったように思います。 そのときは何てロマンチックで懐かしい情感が香る曲なのだろうかと思いました。最初の有名なテーマは、現在CMや映画、テレビ番組のBGM等で頻繁に聴かれるようになりましたね。

 何よりテーマが親しみやすく覚えやすいですし、ヴァイオリンやチェロ、ピアノで演奏するにしても弾きやすいのが最大の魅力ですね!おそらくこれからも多くの人が口ずさみ、愛される名曲として受け継がれていくことでしょう。
 
 愛の挨拶で私が一番惹かれるのは、中間部でやや憂いを帯びた主題が出てくるところです。 回想のシーンが蘇るように少しずつ調を変えながら展開される美しいメロディ……。時間の流れが止まったかのようにも思えるこの絶妙の味わいは『愛の挨拶』がただの小品ではないということを強く感じさせるのです。
 こんなに可憐で美しい音楽を作った人が、あの行進曲『威風堂々』や『チェロ協奏曲』を作った人だとはちょっと信じられないような気もいたします。



グローブスの
しっとりとした演奏

 この曲はさまざまな形で演奏されますが、私が聴いて一番しっくりくるのはチェロやピアノの独奏ではなくオーケストラ版ですね。なぜかと言えば、魅力的な中間部の美しい転調が最も味わい深くて余韻が残るのがオーケストラ版だからなのです。
 チャールズ・グローブスがフィルハーモニア管弦楽団を指揮した演奏はゆったりとしたテンポとしっとりと愛情を込めた表情が美しく、この曲の決定版といってもいいかもしれません。
 しかし残念なことにグローブス盤も現在は廃盤になっているようです。お聴きになるとしたら、とりあえず『ウェディング・クラシックス』とタイトルがついたウェディングに纏わるイメージの作品を集めたオムニバス盤しかないようですね。




2015年2月17日火曜日

バッハ カンタータ第1番『暁の星のいと美しきかな』









溢れるような喜びと希望が
情感豊かに展開

 バッハは音楽を「神の賜物」と考えた作曲家で、不世出の傑作「マタイ受難曲」、「ヨハネ受難曲」、「ミサ曲ロ短調」はもちろんのこと、多くの作品はこのような信念に基づいて作曲されたのでした。
 これはルター派(宗教改革で有名なマルティン・ルターを創始者とする教派)の正統的な流れを汲む考え方でもありましたが、単に教派の典礼音楽としての範疇に留めないところがバッハの偉大なところなのです。バッハがライプツィヒ時代に盛んに作曲した教会カンタータはプロテスタントの礼拝用の音楽として位置づけられているものですが、芸術的な価値も非常に高く、今なおその作品は多くの音楽家によって演奏されているのは承知の事実です。

 カンタータBWV1『暁の星のいと美しきかな』はルター派の牧師だったフィリップ・ニコライの原曲による作品ですが、バッハの息がかかることによって、新たな生命力が付与されたことは言うまでもないでしょう。この作品は受胎告知の祝日用として作曲されたもので、溢れるような喜びと希望が情感豊かに展開されていきます。

 最高の聴きどころは1曲目の管弦楽を伴う合唱です。まずヴァイオリン二挺が語り合うように奏でる懐かしく素朴な響きに癒されます。そこにホルンが絡むとますます牧歌的な雰囲気が醸し出されていくのがわかりますね……。
 少しずつ形を変えながら何度も繰り返され発展していく主題の展開はバッハの作曲の妙が充分に味わえるところです。この第1曲は合唱だけでなく、独奏楽器が主題を奏でる面白さと豊かさがふんだんに味わえる音楽といっていいでしょう!

 そして同じように独奏楽器(ヴァイオリン)が活躍するのが第5曲目のテノールのアリアです。このアリアは力強いフレーズの提示と卓越したリズムが素晴らしく、段々と音楽が進行するにつれて深みを増していくのが特徴です。何よりもヴァイオリンの伴奏が魅力的で、躍動的な喜びが伝わってきますね!

 同じ教会カンタータでもBWV140『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』やBWV147『心と口と行いと生活もて』の人気曲に比べるとBWV1は演奏頻度もぐっと少なくて地味な存在です。もっともっと聴かれてもいい曲ではないでしょうか……。



リヒターの
唯一無二の名演

 演奏はバッハのカンタータをライフワークとして捉えていたカール・リヒター=ミュンヘンバッハ管弦楽団および合唱団(アルヒーフ)が最高です。
 1曲目のヴァイオリンやホルンの響きからして彫りが深く、情緒豊かでありつつも格調高い音楽がいっぱいに拡がっていきます。しかも合唱の真摯でひたむきな表情が曲の持つ性格にピッタリです!
 リヒターの熱い気持ちと強い意思が比較的自然な形で発揮された名演奏と言えるかもしれません。

 ソリストでは第5曲のアリアを歌うエルンスト・ヘフリガーが際立っています。輝きに満ちた声、自然な陰影、立体的な表情等……本当に素晴らしく、変化に富んだこのアリアを意味深く聴かせてくれます。第3曲のアリアを歌うエディット・マティスの表情がやや硬く、単調に聴こえるのが少々残念ですがそれ以外はすべてに理想的です。

 教会カンタータ=ルター派の精神性という構図に決してこだわる必要はないのでしょうが、根底にプロテスタントの礼拝用の音楽としての下地があることを考えるとすれば、リヒター盤以外の選択肢は考えられないくらいこれは完成度の高い演奏と言えるでしょう。




2015年2月10日火曜日

横浜美術館「ホイッスラー展」を鑑賞して





「ホイッスラー展」パンフレット






「ホイッスラー展」パンフレット








『チェルシーの通り』1888年頃、水彩・紙12.7×21.7㎝





《ふたりの人物がいる海岸の情景》1885‐90年 水彩・ボディカラー・紙



灰色と真珠色:バンク・ホリデー・バナー』1883-84年水彩・紙21.6 × 12.3 cm



《デュエット》1894年 トランスファーリトグラフ・紙





『オールド・ウェストミンスター・ブリッジの最後』1862年油彩・カンヴァス61× 78.1cm




繊細で爽やかな画風の魅力


 先日、横浜美術館で開催されている「ホイッスラー展」に行ってきました。

 ホイッスラーと言えば、前回投稿した「白のシンフォニー No.2:小さなホワイト・ガール」や「白のシンフォニー No.3」が今回の注目作品として紹介されています。確かに両作品の卓越した構図や洗練された色彩感覚を見れば優れた作品であることは納得ですね!
 またジャポニスムの画家と称されることもあり、それに影響された傾向も多々見られますが、決してそれがホイッスラーのすべてではありません。

 むしろ今回の展覧会では全体の半数以上を占めようかというエッチングやリトグラフ、水彩が見事でした。ホイッスラーの良さはこのような小品に集約されているようにも思われるのですが……。
 ここに紹介した4点の作品はポストカードとして販売されているものですが、いずれも繊細で柔らかな筆致が独特の詩情を湛えていますし、確かな絵心を感じさせるのに充分なものでした。

 風景画も素晴らしく、特に「オールド・ウェストミンスター・ブリッジの最後」は橋の工事現場の喧騒や賑やかさが伝わってくるような臨場感あふれる絵で、まるでその場に立っているかのような印象を受けます。今回の「ホイッスラー展」はパンフレットを見ただけでは気づかない、繊細で爽やかな画風の魅力を満喫できた展覧会でした!




2015年2月5日木曜日

ヘンデル オラトリオ「エフタ」



















ヘンデル最後の
渾身の作

 ヘンデルはオペラだけではなく、オラトリオの分野でも約30曲ほどの粒ぞろいの作品を世に送り出しました。そんなヘンデルの事実上、最後のオラトリオが1752年に作曲された「エフタ」です。エフタを作曲した当時のヘンデルは体調がすぐれず、既に眼は視力を失い、失明寸前の状況にあったと言われています。「エフタ」は最後の力を振り絞った渾身の作と考えてもよろしいでしょう。

 このオラトリオは旧約聖書の士師記を題材にしており、ギレアデ人の指導者となったエフタ、そしてエフタの娘の宿命的な物語なのですが、脚本が少々書きかえられていて(書きかえられたというよりも結末が変わってしまった)、それが物足りないとおっしゃる方が多いのも事実です。
 聖書ではエフタが神と誓いを立て、「アマレク人との戦いに勝利したならば、最初に迎えに出た者をあなたにお捧げします」と約束したのでした。しかし戦いに勝利し最初に迎えにきた者が実は自分の娘だったことで、エフタはひどく悲嘆にくれるのですが、神との誓いは破ることはできず娘を神に捧げるという話です。 
ところがオラトリオの脚本では神が「生涯、処女であるならば許そう」という結末にすり替わっているのです。見方にもよるかもしれませんが、あまりにも都合のいい話にしてしまった感じはどうしても否めませんね……。

 では音楽はどうなのかというと、これが本当に素晴らしく、音楽的な充実感や深さは比類がありません。 
 ヘンデルのオラトリオには中期のサウル、メサイア、ベルシャザール、後期のソロモン、テオドーラ等のそうそうたる傑作がありますが、それらの作品以上に円熟した作曲技法と深い精神性が融合された最高傑作と言っても過言ではないでしょう。個人的にはサウルと並ぶヘンデルの名作だと思っておりますが……。
 劇中でのアリアや二重唱での崇高なメロディや精神的な深さは秀逸で、特に規模が大きく変化に富んだ合唱の素晴らしさは瞠目すべきものがあります!



稀有な生命力と立体感、
ヘンデルの真髄!

 「エフタ」の特徴としてあげられるのは並々ならない合唱への大きな比重でしょう! 劇中の要所要所に置かれた合唱はそれぞれが劇的で強い存在感があり、ドラマを展開する上で重大な役割を占めていることに気づかされます。ルネッサンスやバロック初期のミサ曲、オラトリオにありがちな美しい声の響きと陰影のバランスによって魅力が引き出されるという感覚はここにはもうありません。

 それは後年のロマン派にも通じるような生命力が漲っていますし、堂々として立体的な構造を持っているのです。ベートーヴェンはミサソレムニスでミサ曲の通念を打破した傑作を作っていますが、「エフタ」の合唱はミサ・ソレムニスに近い感覚を持ち、粗野で骨太なのですが、圧倒的な高揚感と生命力が内在しているのです。

 例えば、自由闊達で微動だにしないエネルギーを感じる第1部前半のNo more to Ammon's god and king、展開部の音楽の拡がりや発展性に優れ、力強く堂々とした第1部終曲のWhen his loud voice in thunder spoke、 叡智に満ちた響きが深い祈りと永遠の安息を実感させる第3部後半のTheme sublime of endless praise等が好例でしょう。

またアリアの崇高な美しさや深さも抜群で、第3幕のエフタのアリア"Waft Her, Angels"や同じく第3幕のイフィス(エフタの娘)のアリア "Ye Sacred Priests" と "Fairwell, ye Limpid Springs and Floods"あたりはオラトリオだけでなく、声楽史上に残る名曲といっても間違いありません。



ヘンデルのオラトリオの歴史に
燦然と輝くブッダイの名演

 特に合唱が素晴らしく全体の流れにメリハリを与えていますし、その表現からは強い主張と深い意味が伝わってきます。精緻で澄んだハーモニーとはちょっと違いますが、有機的で彫りの深い表現がこの作品にはピッタリです! おそらくブッダイは合唱がよく分かっている人なのでしょう。
 ブッダイ盤の合唱を聴いて、初めて魅力を実感するナンバーも少なくありません。特に第1部の最初の合唱No more to Ammon's god and kingは風格とゆとりすら感じられます。このような剛毅な表現は他の演奏ではまず聴けないかもしれません。
 ソリストではエマ・カークビーのいつもの澄み切った声とは違う意味深い歌唱に驚かされますが、魅力的であることに変わりはないでしょう。その他の歌手もまずまず理想的です。

 ブッダイは2012年にも新盤(K&K)を収録しています。手兵のマウルブロン室内合唱団の合唱は相変わらず素晴らしい出来栄えですが、全体的にソリストが弱いのと有機的に発展していくつながりに弱いため、1998年盤に比べると物足らない感じがつきまといます。しかし、旧盤と比べなければ、これはこれで充分にお薦めできる演奏かと思います。

むしろブッダイの新盤よりもハリー・クリストファーズ=シックスティーン(Coro)の引き締まった演奏をとりたいですね。ブッダイの旧盤のような剛毅さ、骨太な感じはありませんが、全体的に実によくまとまっています。特にシックスティーンの合唱は最高で、ブッダイ盤にはない精緻で澄んだハーモニーに酔わされます。しかもハーモニーが美しいだけではなく、それぞれに曲の本質をしっかりとらえたアプローチがなされていることに感心させられます!
ギルクリストやビッカリー、ベヴァンらを始めとするソリストたちも優秀で、それぞれが役どころにあった歌唱を見事にこなしています。



2015年1月31日土曜日

モーツァルト ピアノ協奏曲第6番K238(2)










初期のピアノ協奏曲の
傑作K.238

 無邪気な微笑みと心の翳りを併せ持つ音楽の天使!
 人の心の機微に優しく語りかける詩人……。
 モーツァルトは音楽の天才と言われたりしますが、それ以上に私たちの心を捉えて離さない天才ですね!それにしても、モーツァルトの音楽ってどうしてこんなに愛おしいのでしょうか⁉

 以前の投稿でモーツァルトのピアノ協奏曲で第20番以前の作品も魅力に溢れていると書きました。初期のピアノ協奏曲の中で傑出しているのが6番K.238です。K.238は音楽的な純度の高さ、モーツァルトらしいメロディとリズム、こぼれ落ちるようなセンスと魅力に溢れているのです!中でも絶品なのが第3楽章ロンド・アレグロでしょう。まさに天使の微笑みとはこのような音楽を言うのではないでしょうか⁉

 ロンド・アレグロに何度も登場するホルンはピアノの対旋律に回ったり、意味深いフレーズを吹いたりと実に効果満点です。寛いだ感じで登場するピアノの第一主題もとても親しみやすくていいですね!
 口笛を吹きながらスキップするように音楽は軽快に進んでいくのですが、音楽はまったくダレたり退屈になることなく、さまざまなエピソードや余韻を残しながら心に染み込んでくるのです。

 第1楽章、第2楽章もくどさや無味乾燥なところが一切なく、自然な陰影がありメロディが少しずつ形を変えながら空気のように聴く人の心にスーッと染み込んでくるのです。ちょっとしたリズムやメロディに込められた繊細なニュアンス、音楽的な味わいは最高で、音楽を聴く喜びにいつのまにか満たされるに違いありません。



バレンボイムの
理想的な名演

 ダニエル・バレンボイムはモーツァルトのピアノ協奏曲を重要なレパートリーの一つにしています。やはりここで紹介するベルリンフィルとの録音もピアノ、オーケストラ、録音のすべてが揃った名演奏と言っていいでしょう。バレンボイムは1970年代にもイギリス室内管弦楽団とピアノ協奏曲全集を録音していますが、完成度はやはりベルリンフィルとのものが1枚も2枚も上と言っていいでしょう。

 このK.238でのバレンボイムのピアノは実に豊かで深く、モーツァルト特有の純粋無垢な響きも充分に表現されています。第3楽章ロンド・アレグロの自在でメリハリに富んだ表現、音楽の流れを損なわない音楽性はさすがです。
 ベルリンフィルの伴奏も豊かで音楽的だし、楽器の響きに奥行きがあります。そのことがK.238でモーツァルトが伝えたかった愉悦や無垢な魂をより一層引き出しているような気がしますね。
   前回推薦したペライア=イギリス室内管弦楽団と共に聴き続けたいCDです。
 
 




2015年1月28日水曜日

クロード・モネ 「左向きの日傘の女」




左向きの日傘の女  1886年 オルセー美術館




散歩、日傘の女 1875年 ワシントンナショナルギャラリー 




あふれる光と風の
思い出

 モネは印象派の画家の中でも、光や時間の流れを表現することに深い関心を寄せた画家でした。
 その傾向は中期の名作「左向きの日傘の女」(※右向きの日傘の女も同じ年に描かれています)にもよく表れています。写真が一般的ではなかったモネの時代(19世紀後半)は、絵がいかにしてその場の雰囲気を醸し出せるか否かということがとても重要な問題でした。なぜならば、生きた記録として残す手段が絵か文章か歌ぐらいしかなかったからです。
 もしモネが現代に生きていたとしたら、カメラの絞りやシャッタースピードに徹底的にこだわり、風景や女性を被写体にして驚くような美しい写真を撮影する凄腕のカメラマンになっていたのではないでしょうか……。

 この「日傘の女」は知人の娘、シュザンヌ・オシュデがモデルなのですが、絵の源泉になっているのは7年前に世を去った妻カミーユとの美しい思い出だと言われています。この絵から遡ること11年前に描かれた「散歩、日傘をさす女」は妻カミーユと息子ジャンをモデルにした絵なのですが、なんと幸福感に満たされた絵でしょうか! 二人の表情をさわやかな光や風が温かく包んでいる様子が伝わってきます。
 「左向きの日傘の女」は構図や絵柄、雰囲気すべてにおいてこの絵が土台となっていることは間違いありません。モネはカミーユとジャンを描いた時の美しい思い出がよほど心に深く刻まれていたのでしょう……。永遠に戻ってこないが、永遠に忘れられないあの日、あの瞬間が……。その時の晴れた日のさわやかな気候もほぼ一緒で、同じようなシチュエーションで描かれているのです。



10年の時がもたらした
モネの心境の変化

 ただし、10年あまりの間にモネの表現には大きな変化が現れているのは確かです。それは心境の変化と言っていいのかもしれないですね。たとえば「左向きの日傘の女」を見ると、モデルの顔はヴェールに包まれていて、誰なのかを特定することはできないように描かれています。
 しかも人物の性格描写にはほとんど目を向けていません。むしろ人物は自然の素晴らしさを表現する上で邪魔にならない程度に抑えられていますね。では脇役なのか?というと、もちろんそうでもありません。光の反射や投影する影、風がなびく様子を表現するのに白いドレスを纏った人物は格好のモチーフなのです。  
 すでにこの時代モネは、自然が織りなす神秘と調和に心を奪われていたのかもしれません。

 「左向きの日傘の女」で見事なのは、まるでその場に立っているかのように自然の息吹や臨場感を追体験できることでしょう。あふれるような光と心地よい風がモネのイマジネーション豊かな色彩や感性によって紡ぎ出されていることがわかります。