2011年2月11日金曜日

シューベルト 交響曲第7番ロ短調D759「未完成」






刻一刻と表情を変える
転調の素晴らしさ

かつて「未完成交響曲」はベートーヴェンの第5「運命」とカップリングという形でLPがよく発売されていたものでした。1960年、70年代当時「運命」と「未完成」はクラシック音楽を二分する不滅のスタンダードナンバーだったのです。

神秘のヴェールに覆われたイメージが強いこの作品ですが、オリジナル楽器全盛時代の現在、そのイメージも随分と変わってきました。もちろん、ベートーヴェンの第5や第3のように緊密な構成ではありませんし、マーラーやブルックナーのような大作でもありません。
しかし「未完成」は今もなお交響曲において特別な位置にある音楽です。この曲からは大作を書こうとか、深い作品を創ろうとかそういう気負いが微塵も感じられないのです。

頭で考えて、しっかりと綿密に構成と配分を考えたとしても、絶対にこのような作品は創れなかっただろうと思います。シューベルトが特別な思いや感情に突き上げられ、心の泉が溢れるように即興的に書かれた作品こそが「未完成」なのです。

第1楽章は淡くはかない夢幻的な雰囲気のメロディで開始されます。夢が浮かんでは消え、そして突如として舞い降りるメロディの痛切で豊潤な美しさはとてもこの世のものとは思えません。特に展開部の劇的で刻一刻と表情を変える転調の素晴らしさは何度耳にしても飽きることがありません。自身の「ザ・グレート」と呼ばれる交響曲第8番に比べると構成力では一歩譲るものの、神秘的で孤高の魂が終始訴えかける美しい旋律は断然「未完成」が優れています。


さまざまなしがらみから解放された
純粋無垢な心ー第2楽章

第2楽章はさまざまな執着やしがらみから解放された純粋無垢な心が光ります。ここはシューベルトの叙情性と透明な詩情が最高に発揮された素晴らしい楽章ですね!ただひたすら生きていることへの感謝や諦観が切々と美しく書き綴られていきます。

よく大病をして奇跡的にそれが回復したり、経過が良かったりすると、人は健康体のありがたさや生きていることへの感謝の想いを強く実感するといいます。そして回復後、改めて見る日常の光景や見慣れたはずの自然の情景が美しく輝いて見えたりするものです。
でも…、それはなぜなのでしょうか?きっとあらゆる心のわだかまりが消えて、ひきずるものがなくなり、楽になるからなのでしょう。この楽章はちょうど病み上がりの澄んだ身体とそれを拒まず包むこんでくれる自然の姿に良く似ています。

この作品が2楽章までしか作られなかったことに対してはさまざまな説があります。私が思うには、この世にも美しい2つの楽章を受けるには相当に神々しく説得力のある音楽でなければ冗談のようになってしまうのではないでしょうか!?……。

だからあえて置かなかったのだと思います。交響曲は是が非でも3楽章以上なくてはならないという決まりはどこにもないのですから……。仮に「ザ・グレート」のような終楽章になったとしたら、それこそおさまりが悪く曲の魅力も半減したに違いありません(もちろん決して「ザ・グレート」が駄作だというわけではありません)。


「未完成」のエッセンスが詰まった
ワルターの名演

演奏は半世紀が経ちましたが、ブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィル(CBS盤)が圧倒的な名演奏です。半世紀(1958年録音)経ったものの、録音の音質は素晴らしく現代のデジタル録音と比べてもほとんど遜色ありません。 ワルターの指揮は世紀の名演奏といっても良く、ここに「未完成」のエッセンスがすべて詰まっているといっても過言ではないでしょう。

神秘的な雰囲気の曲だからといって決して神経質にならず、心から溢れるメロディを歌い抜き、随所で深く立体的な響きを創り上げるあたりはさすがです。

ワルターはこの曲を愛するあまり、気心の知れたコロンビア交響曲楽団ではなく、ニューヨークフィルを起用したのですが、その効果は絶大でした。テンポといい、響きの素晴らしさ、格調の高さ、融通無碍で溢れる歌心等どれをとっても最高です。






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