2018年7月15日日曜日

ヘンデル 「ヨシュア」













壮麗で美しいオラトリオ

「ヨシュア」はヘンデルがオラトリオを次々に発表していた1748年、つまり最も油が乗っていた時代の作品です。全体は三幕から成っていて、三幕目にはスポーツイベントの表彰式などで有名な合唱「見よ勇者は還る」があるのも特徴です。

ヘンデルのオラトリオを聴いて想うのは何回繰り返し聴いても聴き飽きないことですね。
ただしバッハのように密度が濃く、複雑な音楽構成の作品と比べると、ヘンデルの音楽はあまりにもあっさりしていて単調な音楽のようにも聴こえます。
時には、「マンネリだし、一体どこがいいんだろう…」と囁かれることも少なくありません。
でも不思議なのですが、ヘンデルの音楽(特にオペラ、オラトリオ)は一聴しただけよりも、聴けば聴くほどに音楽の魅力が確実に増し加わってきます。 爽快な気分になるのはもちろんのこと、太陽の光に照らされた心のように、モヤモヤや沈んだ気持ちを掻き消してくれたりするのです……。

ストーリーは旧約聖書の「ヨシュア記」を題材にしたもので、台本はトーマス・モレルが担当し、1748年に初演されました。
モーゼによってエジプトを離れたイスラエルの民でしたが、神に祝福された約束の地カナンへ到達する目前にモーゼは息を引きとります。そこに新しい指導者ヨシュアが出現し、ヨルダン河を渡りカナンへと導いていくというストーリーです。

劇中ではティンパニやトランペット、ホルン等が効果的に使われ、骨太で雄大な感情を盛り上げるほか、重要なシーンでたびたび登場する合唱もストーリーを美しく彩ります! また、明るく前進する気概がみなぎるヨシュア(テノール)のアリア、純情可憐な魅力をふりまくアクサ(ソプラノ)のアリア、明確な個性や表情豊かな愛の表現がいっぱい詰まったソロの数々がヘンデルの音楽のイマジネーションの凄さを感じさせます。

全体的に歯切れのいい曲想は聴いていると自然と胸が高鳴ってきますし、視界が良好なために余計なことを考えさせず明確に音楽は発展していきます。しかも、音楽的な充実感はたとえようがないと言っていいでしょう。
 


パルマーとカミングスの名演

演奏ではルドルフ・パルマー指揮ブリューワー・バロック室内管弦楽団他が曲想や本質をよくとらえた文字通り歯切れのいい演奏で、長さを感じさせません。まずソプラノのアリアを歌うジュリアン・ブリアードの透明感漂う声が魅力的で忘れがたい印象を残します。またヨシュアを歌うジョン・アラーは美しい声とセンス溢れる表現が作品にインパクトを与えています。

合唱は指揮者パルマーの手兵の団体なのかもしれませんが、指揮者の主張が良く伝わり、自然な発声で音楽を盛り上げているところがなかなかです。
ただしこれほど素晴らしい演奏なのに、CDのジャケットは正直言ってセンスがいいとは言えません(いやむしろダサいイメージを売りにしているのかも…!?)。ちょっと残念ですね。


カミングスは何度となく「ヨシュア」をレコーディングしていますが、よほど彼のスタイルや趣向に近い何かがあるのでしょうか……。
NDR合唱団の声の量感や彫りの深さ、表現の多彩さはパルマー盤を凌いでいます。そしてターバー、デニスらの表現、カミングスの統率力も終始安定していて聴き応えがあります!



2018年6月22日金曜日

「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」



家族と(左端・ちひろ)
1928年 ちひろ美術館蔵



小犬と雨の日の子どもたち
1967年 ちひろ美術館蔵








時を超えて語り続ける
いわさきちひろの世界

この夏はちょっといい夏になるかもしれません……
それは絵本作家いわさきちひろの作品の原点を辿る企画展「生誕100 いわさきちひろ、絵描きです。」が開催されるからです。

いわさきちひろさんと言えば、子どもをテーマにたくさんの絵本や挿絵を手がけた人ですが、彼女が描く無邪気で愛らしい子どもたちの表情、可憐な花々は大人でさえ童心に戻らせる無類の優しさがありました。
とりわけ水彩のにじみや色彩が紡ぎ出す夢幻的で透明感溢れる詩情は秀逸で、深く心に刻まれたものです。

この展覧会は全体で4章構成になっていて、彼女の生い立ちから始まり、なぜ彼女が純粋無垢な子どもたちの眼差しを描くことが出来たのか等々、200点あまりの資料や作品を展示し、その作品の本質に迫ります。楽しみな作品展ですね……。



【開催概要】
生誕100 いわさきちひろ、絵描きです。
会期:2018714()99()
会場:東京ステーションギャラリー
開館時間:10:0018:00(金曜日は20:00まで。
     入館は閉館30分前まで。
休館日:716()813()93()を除く月曜日、717()
入館料:一般 1,000円、高校・大学生 800円、中学生以下無料


【巡回】
・京都
開催期間:20181116()1225()
会場:美術館「えき」KYOTO
住所:京都府京都市下京区 烏丸通塩小路下ル東塩小路町

・福岡(予定)
開催期間:20194月~5

2018年6月5日火曜日

ベートーヴェン 交響曲第8番 ヘ長調 作品93



















ベートーヴェン異例の
明るく爽やかな音楽

ベートーヴェンは作曲する際、妥協することなく、どこまでも自分の理想とポリシーを貫き通した人でした。
したがって彼の作品は形式にとらわれたり、人の関心をひくだけの音楽はほぼないと言っていいでしょう。一様にどれも強靭な精神性と革新的な閃きに満ちあふれているのです。
彼の交響曲はどれもこれも傑作揃いですが、その中で一つだけ異質な作品があります。
それが1817年作曲の第8交響曲です。

中期の英雄交響曲、交響曲第5番のような極限の緊張感とドラマチックなソナタ形式に貫かれた作品とは異質の世界がここにあります。ベートーヴェンとしては珍しく最初から最後まで微笑みに溢れ、心地よいゆとりと潤いがあるのです。

とは言うものの、最後の大作、第九の前の交響曲です。ベートーヴェンが単にあっさりとした作品を作るはずがありません。

仮に他の作曲家がこのようなスタイルで、同じように充実した作品が作れるだろうかといえば、それは甚だ疑問です。
ここにはベートーヴェンの卓越した音楽性と豊かな精神性が無理なく融合しているのです。


ユーモアと骨太な
魅力が同居

第一楽章の溌剌としていて、何事にもとらわれずに前進するたとえようのない爽快感!
けれども中間部で見せる真剣な眼差しや格調高い高揚感は中期の傑作にも通じるし、懐の深さを感じざるを得ないのです。

第二楽章のメトロノームの動きを模したといわれる主題は明るく親しみやすく、ベートーヴェンのイメージを一新させてくれます。もちろんそれだけではなく、キリッと引き締まった造形とリズムは一つの方向に向かって熱く燃えあがっていくのです。

第三楽章もそれを継承していて、ユーモアに溢れた感覚が新鮮ですが、粗野で骨太な魅力はベートーヴェンならではです。

第四楽章は第八交響曲の特徴のすべてを結集した密度の濃い音楽となっています。多彩な主題の展開は広々とした世界が彷彿とされますし、高い理想と信念に向かって進行していく格調の高さに心うたれるのです!

この交響曲はいい意味での軽さとベートーヴェンらしい強靱な響きが両立しないと何とも具合が悪いので意外に難しいのです……。 デヴィット・ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(ARTE NOVA)の演奏はストレートな進行と虚飾を排した表現が光ります! 
モダン楽器の演奏をオリジナル楽器の演奏のように見立てているところがポイントです。オリジナル楽器の切れ味とモダン楽器の豊かな響きの良さがミックスされた秀逸な演奏と言えるでしょう。ただし、第四楽章だけはストレート過ぎて、やや物足りなさが残ります。

セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルの演奏は相変わらずスローテンポの演奏ですが、しっかりとした足どりのスケール雄大な演奏ですが、間延びしたりしないのはさすがです。特に第4楽章は密度の濃い大芸術となっているのです!


2018年5月16日水曜日

カントルーブ 『オーヴェルニュの歌』
















滲み出る心の想い

この作品集の魅力に気がついたのは比較的最近のことです…。もちろん全曲通して聴いたのも最近のことでした。
フランス中南部のオヴェールニュ地方で歌われてきた民謡に、ジョゼフ・カントループ(1879~1657、作曲家)が管弦楽をつけたのが「オヴェールニュの歌」です。

民謡がベースになっていることもあって、その味わいは素朴で温かみがあり、滲み出る心の想いが切々と綴られたまさに故郷の歌といっていいかもしれません……。カントループの凄いところは原曲で伴奏として使われていた笛やハーディ・ガーディのような民族楽器の味わいを生かしながら、色彩豊かで潤いのある音楽へ高めているところです。 故郷を知り尽くしたカントループだからこそ、優れた音楽的感性で古色蒼然とした民謡の数々を美しく普遍性のある音楽へと生まれ変わらせたといってもいいでしょう。

特に有名なのが「バイレロ」です。これは川を隔てて、羊飼いと娘のやりとりを綴った愛の歌なのですが、時間がゆっくりと流れていく風情が何とも言えません。自然の恵みの中でいつまでも身を任せたくなる旋律と伴奏、永遠の瞬間を映し出すような音楽の魅力はこのまま終わらないでほしいとさえ思えてきます……
その他、壮大な山々を見渡すように晴れやかに響くアントゥエノや軽快なリズムで口ずさむように展開されるブーレー等、それぞれの曲は実に変化に富んでいます。心が弾むときも、辛く悲しいときも、いつも寄り添ってくれる自然や人々の姿に、自分自身の想いを重ね合わせながら、心の日記を綴るように各曲が描かれているのです。


音楽の魅力が溢れる
ダヴラツ盤

ネタニア・ダヴラツ (ソプラノ)、ピエール・ド・ラ・ローシュ指揮&管弦楽団(VANGUARD)は半世紀以上前の録音になりますが、この作品初の全曲録音盤であり、今も決定版として推す人も少なくありません。
ダブラツの発声は凛として嫌味がありませんし、透明感あふれる優しい歌い方にはとことん癒やされるでしょう。また、時にユーモアを交えるなど表現の幅も広く、この作品の魅力を目一杯引き出してくれます。 特に「バイレロ」の子守唄のような愛おしさや優しさに満ちた歌が絶品ですね。しかもその表情にはどことなく憂いが漂い、深い味わいを醸し出してくれるのです。民族楽器と管弦楽の懐かしい響きや味わいも最高です!

アンナ・モッフォ(ソプラノ)、ストコフスキー指揮ロンドンフィル(RCA)の演奏は抜粋盤ですが、これはかなり演出を加えているとはいえ、純粋な声楽曲として捉えれば雰囲気豊かで洗練された名盤です。モッフォのどこまでも伸びる声質とヴィブラートを極力排したスケールの大きい表現は大自然の威容そのもので、特に「アントゥエノ 」の清々しい歌は襟を正されるような気がします。



2018年5月2日水曜日

プッチーニ “La Rondine‐つばめ”












不幸な運命を背負ったオペラ

プッチーニは19世紀イタリアオペラの大家ヴェルディと並び称されたり、ヴェルディの衣鉢を継ぐオペラ作曲家だと形容されたりします。

しかし、その作風はヴェルディとは大きく異なります。心理的でドラマチックな音楽を書いたヴェルディに対して、叙情的で感覚的な音楽を書いたプッチーニ。

音楽の性格は大きく異なる二人ですが、イタリアオペラだけでなく、オペラ界の発展に大きな足跡を残した二人であることに異論の余地はありません。

さて、今回採り上げたいのはプッチーニの比較的後期のオペラ「つばめ」です。「つばめ」が発表された1917年は「ラ・ボエーム」、「トスカ」、「蝶々夫人」等のいわゆる三大オペラを世に送り出してから、10数年の歳月が流れていたのでした。

しかし、このオペラは運命のいたずらなのか、作品の成り立ちから発表に至るまで多くの不幸が重なってしまい、現在でも誤解や呪縛から完全に解き放たれてはいないし、正当な評価を受けているといえない状況なのです。

そもそも前作のオペラ「西部の娘」の公演でオーストリアを訪れた際にオペレッタの作曲家レハールと会ったのが作曲のきっかけでした。その後、レハール付きの劇場支配人からオペレッタを作ってほしいとの依頼がきます。でもプッチーニの感性からしてオペレッタは性に合わなかったのでしょうね……

台本も気に入らなかったようですが、それ以上にオペレッタの喜歌劇的な作風がプッチーニにはどうにもネックだったようです。依頼を受けたとはいえ、彼の持ち味である悲劇的なペーソスを加えなければ作品を完成させられないと思ったのは至極当然といえば当然でしょう。

その後、世界大戦の勃発でオーストリアとは敵対関係に陥ったり、版権問題のこじれ、第三幕パートの焼失、イタリア初演の不評等、プッチーニを悩ませる問題が続出し、作品は次第に忘れ去られていったのでした……

しかし乱暴な言い方を許されるならば、ケガの功名というか……、オペレッタを念頭に置いて作曲されたことと、ウィンナワルツを多用した作風がプッチーニの他の作品にはない開放感と心地よさを備えているのも事実なのです。



ハッとする美しさ!
繊細な感情を映し出す音楽

あらすじは次のようになります。
“パリのとある豪華なサロン。恋多き女でサロンを主宰するマグダが「ドレッタの美しい夢」という詩を完成させる。すると詩人プルミエが「あなたはつばめのように夢の国へと海を渡っていくが、 また元の巣に戻ってくるだろう」と彼女の人生を占う。
ある時、知人の息子ルッジェーロがパリに出て来る。マグダはルッジェーロに運命的な出会いを感じ、彼に近づくとやがて二人は恋に落ちる。

数カ月間暮らしを共にし、幸せな時間が流れた。ルッジェーロは故郷の母に結婚の承諾を得て、晴れてマグダと一緒になるはずだった……
しかし、マグダは自分が汚れた身であることを打ち明け、偽って結婚することはできないと言って涙ながらにルッジェーロに別れを告げるのだった。”

それにしても音楽は美しくロマンチックな香りが漂い、忘れ難い印象を与えてくれます。なぜこれまで上演の機会が少なかったのかが、不思議でなりません。
まず、オープニングの前奏曲から快活でメッセージ性に溢れた主題が耳にも心にも飛び込んできます!

また、プッチーニらしい翳りを帯びた美しい情感や個々の楽器の持ち味を活かした雰囲気づくりもそこかしこに現れ、最高です。声楽と管弦楽が織りなすロマンティックな響きも絶品ですね。

そして、第一幕全体に流れるアリア「ドレッタの美しい夢」の何と慎ましやかなことでしょうか! 自己主張するわけではないのに、さり気ないメロディが醸し出す懐かしさやほのかな哀感が心に沁みます。

第二幕の舞踏会場での熱気と興奮、高貴な雰囲気も最高です。停滞することなく展開される流麗なメロディが素晴らしく、これにプッチーニ独特の哀愁が絡まると夢のような世界が生み出されていくのです。



つばめの素晴らしさを
再認識させたパッパーノ盤の名演


まず何といっても主役の二人が素晴らしいですね! 
まさに適役と思えるゲオルギューのマグダへの感情移入! 主人公の揺れる心や繊細な感情をものの見事に表現しています。ゲオルギュー自身もこのオペラに対して深い愛情を抱いているようで、あらゆる場面で表現にまったく違和感がありません。
アラーニャの透明感あふれる歌声も素晴らしく、終始安心して聴くことができ、このオペラに華を添えています。

そして忘れてはならないのがパッパーノの指揮でしょう! オケとの呼吸が抜群で、メリハリが利き、シルクのようなみずみずしい響き、繊細な情感も最高の一言です!劇場の華やいだ情景が浮かんでくるようです。

録音は1997年ですが、このライブがオペラとしての「つばめ」の魅力を再認識させ、再び上演の渦が湧き上がってきたことは間違いないでしょう。今後ますます魅力的な舞台、演奏が上演されることを願ってやみません……。

2018年4月14日土曜日

METライブビューイング プッチーニ『ラ・ボエーム』








粒ぞろいの歌手たちが
織りなす饗宴

ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場のオペラを映画館で上映するという試みのMETライブビューイングシリーズを映画館で見てまいりました。

METライブビューイングシリーズは映画館にいながら、現場で鑑賞するような感覚を想起させる新しいオペラの楽しみ方のひとつとして開始されましたが、今では随分と音楽ファンに浸透しているようですね。

今回見たのは2017~2018シーズンのラインナップの中で見逃せない上演のひとつ、プッチーニの『ラ・ボエーム』です。この公演で最も注目されるのが、主役のミミを演じたソーニャ・ヨンチェヴァでしょう。もはやプッチーニやヴェルディをはじめとするイタリアオペラには欠かせない存在となった彼女ですが、この「ラ・ボエーム」でもその存在感は絶大です。
 有名な「私の名はミミ」では豊かな声質と情感が一層この名曲に花を添えます。そしてロドルフォを演じるマイケル・ファビアーノ、ムゼッタ役のスザンナ・フィリップス等、それぞれにふさわしい人物像を巧みに描き出してくれたのでした。


ゼフィレッリの
舞台の美しさに感動!

この作品はプッチーニの中でもオーケストレーションが特に美しく、夢のような情感を与えてくれる傑作の一つです。したがって伴奏の領域ではではとどまらず、管弦楽次第では作品の感銘の度合いや印象さえ大きく変わってしまうという…ある意味厄介な作品です。

指揮のマルコ・アルミリアートはすべてにおいてイタリアオペラの基本を忠実に再現してくれる人ですが、もっともっとロマンチックで繊細な情感を醸し出してくれても良かったような気がします。特に第1幕で主人公二人が出会う場面の最も感動的な音楽が意外にあっさりすすめられていたのはちょっと残念ですね……。

それに対して、フランコ・ゼフィレッリの舞台演出は最高です! この舞台はメト用に考案されたもので、40年が経とうとする現在も変わらないということですが、作品の本質をしっかり捉えた高い芸術性や感性が、無理なく『ラ・ボエーム』の世界観を私たちの心に焼きつけることに成功しているのです! 
第1幕の屋根裏部屋のシーンからはじまり、第2幕の盛り場カフェのシーン、第3幕の雪の情景のシーンと、どれもこれも非常に凝っていて、舞台という限られた空間の中で様々なイメージや情緒が大きく膨らんでいくのです。

オペラはキャスティングに多くのスタッフが関わるので、すべてが満足とはなかなかいかないものですが、総合芸術としての観客との意思の疎通や面白さ、感動は他の芸術ではなかなか味わえないものかもしれませんね……。


2018年3月19日月曜日

チャイコフスキー 交響曲第6番ロ短調「悲愴」(2)











チャイコフスキー最後の
作品にして最高傑作

この作品については前も書いたことがあります。ただ、その時と現在では多少作品に対する印象が変わってきましたし、このところ音楽に深く共感するところがありましたので、改めて書かせていただきたいと思います。

チャイコフスキー最後の作品にして、押しも押されぬ最高傑作……。
しかもロマノフ王朝、帝政ロシアの終焉の時を色濃く感じさせる何ともいえない悲壮感や諦観が聴く者の胸を強く締めつけます。

特に両端楽章(第1、第4楽章)は絶品ですね。チャイコフスキーがこの曲に託した想いがどれほどのものだったのかが伝わってきます。

第1楽章の開始からコントラバスとファゴットが奏でる重苦しく救いようのない旋律に先行き不安になってしまいます。このまま音楽が進行していったら一体どうなるのだろうかと……。
しかし、淋しさをいっぱいに湛えた第一主題が現れると、曲の特徴や性格がしっかりと打ち出され、その後は意味深く格調高い音楽が次々と展開されていきます。

しばらくすると、故郷の美しい情景や春の息吹を予感させる儚くも美しい第二主題が現れます。
その主題が高揚し、収束すると、全体のクライマックスとも言える恐ろしい展開部がやってきます。荒れ狂う魂の彷徨や、もがき苦しみながら何かにしがみつこうとする音楽はまさに壮絶そのものとしか言いようがありません。


一度聴いたら忘れられない
第四楽章の衝撃

第2楽章は民謡風の懐かしい情緒とチャイコフスキー独特の美しい旋律が噛み合った稀有の音楽です。終始憂いの心が漂い、最後は名残惜しさを湛えつつ静かに音楽が止んでいきます。
第3楽章ではバレエ音楽で培った絶妙なリズムや色彩豊かな楽器の音色が生きています。行進曲風の威勢のいいテーマが進行して、圧倒的なクライマックスを築き上げるのですが、決して魂の歓喜に至らないのは身に迫る現実との距離感からなのでしょうか……。

第4楽章はむせび泣くような悲しみに彩られた第一主題で始まります。これは誰もが一度聴いたら忘れられない強烈な印象を受ける音楽ではないでしょうか。それまでこんな独創的な開始のフィナーレはなかったでしょうし、当時としては大いに物議を醸しだしたのかもしれません。
そして中間部で慰めに満ちた神秘的なテーマが現れると、瞑想と回想が交錯する中で、いよいよ悲しみの大きさが頂点に達します。遂に悲しみに終止符を打つドラが鳴ると、絶望の中で途方に暮れながらトボトボと歩き始めるのですが、次第にその姿も見えなくなってしまうのです……。


深遠な内容と卓越した音楽性
ムラヴィンスキーの芸術

『悲愴』は名曲のため、昔からかなりの数の名盤が存在します。
メンゲルベルク、フルトヴェングラー、モントゥー、カラヤン、チェリビダッケ、アバド、ザンデルリンク……と挙げればキリがありません。 その中で、演奏の素晴らしさはもちろん、深遠な内容、卓越した音楽性に圧倒されるのが、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィル(現サンクトペテルブルク・フィル)の録音です。端正で格調高く、模範的な演奏スタイルのため、何度も耳にすると聴き飽きてしまうのでは……と思われるかもしれませんが、まったくそのような心配は無用です。

表面的にはクールを装いつつも、実は内面の炎が熱く燃えたぎる演奏をするのがムラヴィンスキーなのです。
特に第一楽章の展開部や第四楽章展開部はあらゆる楽器の音色やフレージング、間のとり方に指揮者の心が強く浸透していることが明らかです。とにかく、フォルティッシモ(最強音)からピアニッシモ(最弱音)まで、その表現には絶えず意味があり、温もりと豊かな音楽が溢れているのです。

当時のソビエト社会主義連邦(現ロシア)の指導者たちが、芸術家たちを社会主義リアリズムで厳しく締めつけ(多くの画家、作曲家、音楽家が亡命)、次第に表現の自由が奪われる中で、ムラヴィンスキーは生涯ソ連国内に居残り、50年にも及びレニングラードフィルを監修し、指揮し続けられたことは本当に奇跡としか言いようがありません。

やはりムラヴィンスキーの芸術が図抜けて素晴らしく、団員からは信頼され、強いカリスマ性の持ち主でもあったため、党の指導者と言えどもむやみにぞんざいな扱いをするわけにはいかなかったということなのでしょうか……。