2018年3月19日月曜日

チャイコフスキー 交響曲第6番ロ短調「悲愴」(2)











チャイコフスキー最後の
作品にして最高傑作

この作品については前も書いたことがあります。ただ、その時と現在では多少作品に対する印象が変わってきましたし、このところ音楽に深く共感するところがありましたので、改めて書かせていただきたいと思います。

チャイコフスキー最後の作品にして、押しも押されぬ最高傑作……。
しかもロマノフ王朝、帝政ロシアの終焉の時を色濃く感じさせる何ともいえない悲壮感や諦観が聴く者の胸を強く締めつけます。

特に両端楽章(第1、第4楽章)は絶品ですね。チャイコフスキーがこの曲に託した想いがどれほどのものだったのかが伝わってきます。

第1楽章の開始からコントラバスとファゴットが奏でる重苦しく救いようのない旋律に先行き不安になってしまいます。このまま音楽が進行していったら一体どうなるのだろうかと……。
しかし、淋しさをいっぱいに湛えた第一主題が現れると、曲の特徴や性格がしっかりと打ち出され、その後は意味深く格調高い音楽が次々と展開されていきます。

しばらくすると、故郷の美しい情景や春の息吹を予感させる儚くも美しい第二主題が現れます。
その主題が高揚し、収束すると、全体のクライマックスとも言える恐ろしい展開部がやってきます。荒れ狂う魂の彷徨や、もがき苦しみながら何かにしがみつこうとする音楽はまさに壮絶そのものとしか言いようがありません。


一度聴いたら忘れられない
第四楽章の衝撃

第2楽章は民謡風の懐かしい情緒とチャイコフスキー独特の美しい旋律が噛み合った稀有の音楽です。終始憂いの心が漂い、最後は名残惜しさを湛えつつ静かに音楽が止んでいきます。
第3楽章ではバレエ音楽で培った絶妙なリズムや色彩豊かな楽器の音色が生きています。行進曲風の威勢のいいテーマが進行して、圧倒的なクライマックスを築き上げるのですが、決して魂の歓喜に至らないのは身に迫る現実との距離感からなのでしょうか……。

第4楽章はむせび泣くような悲しみに彩られた第一主題で始まります。これは誰もが一度聴いたら忘れられない強烈な印象を受ける音楽ではないでしょうか。それまでこんな独創的な開始のフィナーレはなかったでしょうし、当時としては大いに物議を醸しだしたのかもしれません。
そして中間部で慰めに満ちた神秘的なテーマが現れると、瞑想と回想が交錯する中で、いよいよ悲しみの大きさが頂点に達します。遂に悲しみに終止符を打つドラが鳴ると、絶望の中で途方に暮れながらトボトボと歩き始めるのですが、次第にその姿も見えなくなってしまうのです……。


深遠な内容と卓越した音楽性
ムラヴィンスキーの芸術

『悲愴』は名曲のため、昔からかなりの数の名盤が存在します。
メンゲルベルク、フルトヴェングラー、モントゥー、カラヤン、チェリビダッケ、アバド、ザンデルリンク……と挙げればキリがありません。 その中で、演奏の素晴らしさはもちろん、深遠な内容、卓越した音楽性に圧倒されるのが、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィル(現サンクトペテルブルク・フィル)の録音です。端正で格調高く、模範的な演奏スタイルのため、何度も耳にすると聴き飽きてしまうのでは……と思われるかもしれませんが、まったくそのような心配は無用です。

表面的にはクールを装いつつも、実は内面の炎が熱く燃えたぎる演奏をするのがムラヴィンスキーなのです。
特に第一楽章の展開部や第四楽章展開部はあらゆる楽器の音色やフレージング、間のとり方に指揮者の心が強く浸透していることが明らかです。とにかく、フォルティッシモ(最強音)からピアニッシモ(最弱音)まで、その表現には絶えず意味があり、温もりと豊かな音楽が溢れているのです。

当時のソビエト社会主義連邦(現ロシア)の指導者たちが、芸術家たちを社会主義リアリズムで厳しく締めつけ(多くの画家、作曲家、音楽家が亡命)、次第に表現の自由が奪われる中で、ムラヴィンスキーは生涯ソ連国内に居残り、50年にも及びレニングラードフィルを監修し、指揮し続けられたことは本当に奇跡としか言いようがありません。

やはりムラヴィンスキーの芸術が図抜けて素晴らしく、団員からは信頼され、強いカリスマ性の持ち主でもあったため、党の指導者と言えどもむやみにぞんざいな扱いをするわけにはいかなかったということなのでしょうか……。

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