2016年12月4日日曜日

ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝-ボスを超えて-












ブリューゲルの『バベルの塔』
日本で24年ぶりの公開

 これは楽しみな展覧会です!
 何と言ってもブリューゲルの『バベルの塔』が見られるのがいいですね。
 
 バベルの塔は言うまでもなく彼自身の作、『雪中の狩人』と並ぶ大傑作です。スケール雄大で、細部にも様々な趣向が凝らされていて、絵を見る楽しさやワクワク感を限りなく伝える数少ない作品の一つではないかと思っています。

 そのブリューゲルが絵を組み立てる上で多大な影響を受けたといわれるヒエロニムス・ボス。ボスの絵は怪奇的な部分と人間の五感を刺激してやまない独特の魅力がありますね……。今なお根強い人気があるというのも何となくわかるような気がします。
 また、この展覧会ではCGを使ってバベルの塔の創作の秘密と魅力を解き明かすのだとか……。ちょっと楽しみではあります。





【開催概要
ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展
16世紀ネーデルラントの至宝 ― ボスを超えて ―
会期:2017年4月18日(火)~7月2日(日)
会場:東京都美術館 企画展示室
住所:東京都台東区上野公園8-36
時間:9:30~17:30
  ※金曜日は20:00まで(入室は閉室の30分前まで)。
  休室日:月曜日
  ※ただし5月1日(月)は開室。
価格:一般 1,600(1,400)円、大学生・専門学校生 1,300(1,100)円、高校生 800(600)円、65歳以上 1,000(800)円
※()内は前売券・20名以上の団体券。
※前売券は2017年1月11日(水)~4月17日(月)で販売。
※中学生以下は無料。
※身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳持参者と付き添い(1名まで)は無料。
※4/19(水)、5/17(水)、6/21(水)はシルバーデーにより65歳以上無料。
※毎月第3土・翌日曜日は家族ふれあいの日とし、18歳未満の子を同伴する保護者(都内在住、2名まで)は一般当日料金の半額(いずれも証明できるもの提示)。
巡回情報 大阪会場
会期:2017年7月18日(火)~10月15日(日)
会場:国立国際美術館
住所:大阪府大阪市北区中之島4-2-55

2016年11月26日土曜日

小津安二郎「秋刀魚の味」













古くて新しい
小津作品の真骨頂

 私にとって小津安二郎監督の映画はとても相性がいいようです。
 遺作となった「秋刀魚の味」(1962年)は妻を亡くした父が、よく出来た娘をお嫁に嫁がせるまでの日々を描いた映画です。極端に言えば、日常のありふれたやりとりだけを描いた映画ですが、まったく退屈に感じません。むしろ心地よい疲れさえ感じるのはなぜなのでしょうか……。 すでに50数年前の映画ですが、小津監督の映画を見ていると何気ないあたりまえのシーンにも大切な人生の側面が浮き彫りにされているような気がするのです。

 この映画で交わされる会話はほとんど他愛のない内容です。しかし、そこには家族間の言うに言えない奥ゆかしい感情が漂っていますし、人として生きることの辛さや切なさが暖かな眼差しとともに伝わってくるのです。
 小津監督の美学はこの映画でも冴えに冴え渡っています。たとえば、カメラのポジションを変えないでローアングルで撮り続けるのもその一つでしょう。その他、無駄な動きを極力取り除いたり、俳優の視線、セリフの口調、調度品の色調の統一を試みたのも徹底した演出のこだわりからくるものなのでしょう。

 動きが少なく、セリフは棒読みのようで、時に物足りなさを感じるほどなのですが、かえってそのことが見る者に多くのことを考えさせるゆとりを与えてくれるのです。このようなシーンの演出も小津監督が名匠と言われるゆえんなのかもしれません…。



気心を知り尽くした
俳優たちとの呼吸

 私はこの映画を見て、なんだかとても胸が締めつけられるような気がいたしました。
 特に印象的なのは娘(岩下志麻)を嫁がせる日の父親(笠置衆)の表情です。心にぽっかり穴が空いたような感覚が伝わってくるシーンですね……。娘の幸福を考えればうれしいはずなのに、それが素直に喜べない父親の戸惑いや寂しさ……、そのような複雑な心境が絶妙に描かれているのです。


 花嫁衣装を身に纏った娘が畳に手を突いて「今までいろいろとお世話に……」と言いかけた瞬間、父が「ああ わかってる わかってる しっかりおやり…幸せにな」と言葉をさえぎる場面があります。
 ぶっきらぼうな表現なのですが、おそらく父にとってこれ以上のはなむけの言葉はなかったのでしょう…。おそらく、「家族なんだからそんな堅苦しい挨拶はいいよ」とか、あるいは「娘を送り出すってこんなに寂しいものだったのか…」のような入り混じった思いが心の中で交錯していたのかもしれません。


 小津監督は俳優たちに常々、「余計な個性を出してほしくない」と伝えていたようですね。彼の映画の常連キャストだった原節子や笠置衆も納得がいくまで何度も撮り直させられたようです。 小津監督は笠置衆に「あんたの演技が見たいんじゃない。とにかく言われたとおりにやってくれ」と口を酸っぱくして言っていたようです。

 「だったら役者は誰でもいいんじゃないの?」と思われるかもしれません。
 でもそうではなかったのです……。小津監督が願ったのは演技をしなくても確かな存在感と気品をスクリーン上に漂わせる役者の存在だったのです。小津組と言われ、毎回同じ役者さんで撮影に臨むことが多かったのも、彼らに全幅の信頼を置いてのことだったのでしょう。


 平凡な日常に横たわる孤独と寂寥感。時には能楽や小気味よいリズムの演劇の舞台を見ているような錯覚にとらわれる小津監督の独特の映画の世界。それは日本的情緒と哀愁を絡ませつつ、日本の伝統美とモダンアートのような斬新な美を両側面で魅せてくれる唯一無二の世界なのかもしれません……。

2016年11月18日金曜日

セザンヌ「リンゴとオレンジ」








静物画に新風を吹き込んだ
セザンヌ 

 セザンヌの絵のファンは多いと言われています。
 確かにセザンヌの絵を見ていると、「こんな物の見方もあったのか」とか、「こういう描き方もあったのか」と、いい意味で創造性を刺激されますし、新鮮な驚きがあります!
 たとえば、遠近法は昔から絵を描く上で絶対に外せない技法として重要視されてきました。しかしセザンヌは自身の絵でこれをあっさりと外してみせたのです。もちろん、気まぐれで外したのではなく、苦悩と葛藤の末に行き着いた表現だったのですが……。
 「リンゴとオレンジ」、これは数多いセザンヌの静物画の中でも特に有名で、最高傑作と称されることもしばしばです。何より絵の気品の高さと物のしっかりとした存在感が際立っていますね!
 この絵の主役はタイトル通り、リンゴとオレンジです。その他のモチーフは花瓶であろうと布であろうと、すべてはリンゴとオレンジを引き立てるための材料であり脇役にすぎないのです。


リンゴとオレンジの
並々ならぬ存在感

 特にリンゴやオレンジの量感や密度の濃さは半端でありません。しかも豊かな色彩からは芳醇でみずみずしい果実のイメージさえ伝わってくるのです!
 それは幾重にも積み重ねられた絵の具のマチエールによるところが大きいでしょうし、目で見た形よりも肌で実感した体験や感動を大切にしていることもあげられるでしょう。 セザンヌはリンゴやオレンジを1個ずつ、やみくもに描いているのではありません。積まれたリンゴやオレンジを一つの集合体としてとらえ、それぞれの関係性や多面的な表情を描くことによって、より果物の存在感を強固なものにしているのです! 

 丹念に着色されたカラーバリエーションの幅の広さも大きな魅力となっているのは間違いありません。
 先ほど遠近法の問題をあげましたが、果物が置かれたテーブルと背景との距離感がほとんどないことにお気づきでしょうか?
 おそらく、セザンヌは立体的な空間の中に巧みに平面的で装飾風の表現を加えることによって、リンゴとオレンジを強く印象づけようとしたのでしょう。

 それにしても、この絵は何回見ても飽きることがありません。おそらく普遍的な眼で物を見たり、色彩や形を突き詰めることによって絵を再創造しようとする画家の眼差しに共感を覚えるからなのでしょう……。

2016年11月13日日曜日

エルガー「エニグマ変奏曲」











友人たちの人柄を
愛情豊かに表現した音楽

 クラシック音楽を聴き始めたばかりの人にとって驚きの一つにあげられるのが、交響曲や協奏曲の一楽章あたりのトンデモナイ時間の長さです。しかも退屈せずに最後まで聴き通すのは、よほど気に入った場合でない限り至難の業なのではないでしょうか。しかし、だからといって難しい音楽ばかりなのではありません……。 

 中でも、エルガーの「エニグマ変奏曲」はポピュラー音楽を聴くような感じで接しても充分に楽しいですし、まったく違和感はないでしょう。しかも形式が変奏曲ですから、CDで聴く場合、トラックが変奏曲ごとに分かれていて(つまり自分の聴きたい変奏曲をワンタッチで選んで聴ける)とても聴きやすいのです!

 何より素晴らしいのは変奏曲の一曲一曲が気が利いていることと、エルガーらしい端正なリリシズムが全開していることです。管弦楽による変奏曲としてはブラームスの名曲「ハイドンの主題による変奏曲」に匹敵する魅力的な作品と言えるでしょう。
 全体を通して聴くと約30分ほどの音楽なのですが、特筆すべきは、エルガーが変奏曲のテーマとして友人たちの人柄を「気の許せるいいやつ」、「懐かしい友の思い出」……、といった感じで愛情豊かに表現していることです。これはラヴェルが『クープランの墓』で第一次大戦で亡くなった友人たちに哀悼の意を込めて作曲したケースに似ていなくもありません。
 
 その友人たちの描き方もなかなかユニークですね! 全体の基本テーマになっている第1変奏(妻アイリスを描いた)や集大成の第14変奏・終曲をはじめとして、友人たちの実像を想わせる魅力的な主題や旋律が続々と現れます。
 たとえば第6変奏は、のどかで微笑ましいテーマが何ともいえない懐かしい雰囲気を醸し出してくれたりします。
 軽快なリズムとユーモアが冴える第7変奏、慕わしさと大らかさが滲み出ているような第8変奏と、どれもこれも生き生きとした個性が伝わってくるのです!


心の友、イェーガーへの感謝と敬意
第9変奏「ニムロッド」

 短くてチャーミングな変奏曲の中で、第9変奏のニムロッドだけは静寂に満ちた祈りや崇高なテーマによる賛歌が印象的で、「エニグマ変奏曲」の文字通りの精神的な支柱といえるでしょう。ここだけは敬虔なイメージが強く、別の音楽のように聴こえます。
 英国ではニムロッドが国民の心情に寄り添う音楽としてとらえられているようで、重要な式典ではたびたび使用されますね……。たとえば、2012年のロンドンオリンピックの開会式もその好例でしょう。

 このような音楽に発展したのはエルガーの精神的苦痛や窮地を救い、音楽に少なからず影響を与えた親友(イェーガー、編集者、評論家)の存在が大きかったようです。イェーガーは唯一無二の心の友だったのかもしれません。
 フィナーレの第14変奏は、妻アイリスやあらゆる友への尊敬と感謝の想いを綴った集大成の音楽で、ここにエルガーの最良の音楽的特質と魅力が集約されているといってもいいでしょう! 

モントゥーの
押しも押されぬ名盤

 演奏は古くはなりましたが、ピエール・モントゥー指揮ロンドン交響楽団(Decca タワーレコードオリジナル)が押しも押されぬ最高の名盤です。
 この録音を聴くとモントゥーの守備範囲の広さが改めて実感されます。ベートーヴェンやブラームスのようなドイツ古典派やロマン派、ラヴェルやドビュッシーといったお国もの、かと思えばバッハの管弦楽曲やチャイコフスキーの交響曲などにも素晴らしい名演奏を残した本物の巨匠でした。

 この演奏もまったく力んでいないのに、音楽が大きくて包容力があり、聴くものを幸福感で満たしてくれます! 
 切れの良いテンポとリズム、柔軟で豊かな楽器の響き、ユーモアと生真面目さのバランスが絶妙な味わい、どれをとっても最高です。





2016年11月3日木曜日

ゴッホ「星月夜」











ゴーギャンとの決別と
幻覚に悩まされつつの創作

 これはゴッホが晩年に残した偉大な傑作であるとともに、何かと議論の対象になることが多い作品のひとつです。
 1888年、ゴッホは芸術に対する考え方の違いからアルルでのゴーギャンとの共同生活に終止符を打ち、パリへ戻る決心をします。その後、極度に精神を病むようになり、サン=レミ(フランス)にあるカトリックの精神病院に入院することになったのでした。
 
 「星月夜」はちょうどその頃、ゴッホが病院の窓から見える夜景を描いたものです。力強く独創的な画風は多分に何かを暗示する意味合いや神秘的な要素を含んでおり、そのことは当時のゴッホが置かれていた状況とあいまって様々な憶測を生む要因になっているのかもしれません。この時代に描かれた絵画はアルル時代に描かれたあふれるような光と黄金色に輝くような色彩がすっかり影を潜めてしまったのでした。

 晩年ゴッホは繰り返される幻覚や幻聴との闘いの苦悩に明け暮れつつ、筆を執っていたことは間違いありませんし、そこには生命を削りながら絵に向かっていく姿が彷彿とされるのです……。


イトスギと夜空
ゴッホが描く永遠のテーマ

 ここに描かれた夜空は暗い闇に覆われているとか、静まり返った情景という印象はありません……。ゴッホが星空を眺めるときに「吸い込まれるようで、どこまでも夢見心地だ」と語っていたように、それは普通の人が眺めるような感覚ではなく、幻想的で限りなく心を鼓舞する神秘的なものとして写ったのかもしれませんね……。

 月の光や星の輝きは厚塗りの線とタッチで、あたかもさんさんと太陽の光があたりを照らし出すように画面上に強烈なエネルギーを放射しています。
 しかもグルグルと渦巻き状に拡がる夜空の運行は緊張感と流動感にあふれていて、そこには尽きることのない神秘性とロマンが醸し出されるのです。

 晩年ゴッホが好んで描いたイトスギ(画面の左、前方の尖った樹木)は、花言葉によると「絶望や死」という意味があり、またゴッホ自身もイトスギがキリストの十字架を象徴するものとして意識したり、イトスギを自身になぞらえたりすることもあったようです。 ゴッホは糸杉に様々な想いを投影することで、苦境に喘ぎながらも描き続ける自分自身の心の拠り所として捉えていたのかもしれません。

2016年10月25日火曜日

クロード・ルルーシュ監督 「男と女」デジタルリマスター版・「ランデブー」














映像と音楽は最高
「男と女」

 先日、恵比寿ガーデンシネマに往年の名画『男と女』(クロード・ルルーシュ監督、1966年フランス)、そして幻の短編映画『ランデブー』の二本立て(1本の映画料金なのですが?)を見に行ってきました。

 フランシス・レイ作曲のボサノヴァ調のテーマ音楽“”ダバダバダ♪“”は今や映画音楽のスタンダードナンバーとして知らない人がいないくらい有名ですね。
 映画はデジタルリマスターされていて、ほぼ50年前の映画とは思えないくらいにリフレッシュして美しく鮮明な映像に仕上がっています。
 まず感心するのがオープニングの美しさ……。これはドーヴィルの港を広角レンズで撮影したのでしょうか、ほどよいパースペクティブが心地よい奥行きを生みだしています。
 その後も海辺のシーンがたびたび出てきたり、野原を馬に乗って走るシーンが出てきたり、ヨットで海に出るシーンが出てきたりするのですが、とにかくカメラワークが自然でセンス満点です!
 また映画の中で現実のシーンがカラーで、回想のシーンがモノクロやセピアでというようにモンタージュ効果が多用されていますが、これもなかなか効果をあげています。

 映像も音楽も雰囲気も最高で、加えて二人の主役アヌーク・エーメの凜とした美しさやジャン・ルイ・トランティニャンのダンディな佇まいも悪くないのですが、いかんせん肝心のストーリー展開や内容そのものにはもう一つ感情移入できませんでした……。

 二人とも伴侶を事故で失っていて、寄宿舎に子供を預けているところも同じで、そんな二人が惹かれあっていく…という内容はドラマの設定としては大変面白いのですが、ただ、あまりにも人物の描き方が淡泊というか全体的にあっさりしすぎている気がするのです……。特にお互いの伴侶への慕わしい気持ち、共感や愛する人への特別な想いがあまり伝わってきませんし、描き切れていません。そのため最後の結末もかなり無理があるような気がしてならないのです……。


予想外!『ランデブー』の
迫力と面白さに降参!!

 それでは収穫がなかったのか……?というと、いえいえ決してそうではありません。 実は『男と女』に入る前、申し訳なさ程度に公開された短編映画『ランデブー』(1976年フランス、未公開)の迫力と面白さにすっかり参ってしまったのです!
 時間にしておよそ9分ぐらいでしょうか……、これはストーリーがあってないようなもので、フェラーリにカメラを取り付けて、パリの街を猛スピードで疾走するというだけの映画なのです。実はこの映画も監督はクロード・ルルーシュなのです。二本立てという意味がようやくわかりました。

 この映画、当時「危険すぎる!交通マナー違反だ!悪影響を与える!」云々の非難やら猛反発を受けて上映禁止となった幻の映画なのです。それはそうでしょう! 信号が変わろうが、歩行者が横断しようが、車が接近しようが、構わずアクセル全開で突っ走るというトンデモない映画なのですから……。見ている間中ヒヤヒヤ、どきどき、ワクワク?……がとまらない文字通りスリル満点の映画なのでした。
 この映画にはシミュレーションゲームのような細工がありませんし、撮り直しや編集も一切ありません。つまりF1ドライバーがぶっつけ本番で一般道を疾走するというあまりにも命知らずの無茶苦茶な映画だったのです。

 したがって、その迫力と興奮は並大抵のものではありません! これはもはや生きたドキュメンタリーと言えるでしょう。そのため、いつのまにか自分が車に乗っているような感覚にとらわれています。エンジン音が唸りを立てれば立てるほど、次にどうなるのか予測できない独特の緊張感や達成感が入り混じって、ますます目が離せない状況を創りあげていくのです!










2016年10月20日木曜日

ジョン・エヴァレット・ミレー 『オフィーリア』










見事な演出効果で生まれた
オフィーリアの神秘的な表情

 ジョン・エヴァレット・ミレーはイギリス・ラファエル前派の代表的な画家として知られています。そのミレーの作品の中でとびきりの傑作として名高いのがここに紹介する『オフィーリア』です。
 おそらくミレーの名は知らなくても、この絵を知っている人は多いのではないでしょうか。

 『オフィーリア』はシェークスピアの戯曲『ハムレット』の登場人物のひとりです。ある日、ハムレットに父親を殺されて精神錯乱状態に陥ったオフィーリアはふらふらと小川にやってきます。無邪気にいろいろな花で花冠を作って、シダレヤナギの枝にかけようとして木によじ登った瞬間に枝が折れてしまいます。川に落ちたオフィーリアは哀れにもそれがもとで息をひきとるのでした。
 この絵はまさにオフィーリアが川に落ちて流されてゆく一瞬の光景を描いた作品なのです。

 まず、目を見張るのがシチュエーションの設定の緻密さと構図の斬新さです。特に川辺の自然の描写は見事で、緑の草花が生い茂っている様子はみずみずしくも美しく、目に焼きついて離れません。とにかくあらゆる部分に繊細で気品に満ちた筆のタッチや彩度の高い色彩が生きているのです。徹底的にこだわりぬいて描かれた絵だということが一目瞭然ですね。
 実はこの情景描写はあらかじめイギリス・サリー州イーウェル市のホッグスミル川の風景を元に描かれており、この丹念な描写こそが『オフィーリア』の大きな成功の要因になっているといえるでしょう。しかし、作画中は悪天候や環境の悪条件に悩まされ続け、何度も断念せざるを得ないような状況に陥ったようです。

 それに対して、画面を左右に分割する水平線の構図はたとえようのない落ち着きと静けさを生み出しています。その水平線上にぽっかりと顔を浮かべるオフィーリアの表情があまりにもリアルで強烈にひきつけられてしまいます。彼女は川に沈んでゆく間、何を思っていたのでしょうか……。虚ろな表情にも、安堵の表情にも、一瞬の淡い夢を見ていたのか恍惚とした表情にも見えます。
 かぐわしいほどの美しい情景描写を用いながら、美のはかなさと生きることの不条理、現実世界の非情なまでの美しさを画面上で対比させて見事な効果をあげているのです。
 
 オフィーリアのモデルになっているのはラファエル前派の有名なモデル、19歳のエリザベス・シダル(後にラファエル前派の画家、ロセッテイの妻)でした。ミレーはロンドンの自分のスタジオで、水を満杯に張ったバスタブに横たわらせて描いたそうです。
 彼は水を温めるためにオイルランプをいつも置いていたのですが、ある日、作品に入り込みすぎて火が消えたことに気づかず、シダルは厄介な風邪をひいてしまいました。そのため彼女の父親から多額の治療費を請求され支払った経緯もあるようです。

 こういう綿密な演出や設定の中で様々な過酷な状況で描かれた絵だけに、並々ならぬ緊張感が漲っているし、誰が見ても虜になるような美しく神秘的なオフィーリアの表情が胸を打つのは当然と言えば当然でしょうか……。

 さまざまなエピソードに事欠かない作品ですが、この絵は写実的な美しさはもちろん、アールヌーボー的な洗練された様式美を持った絵でもあることを付け加えておきたいと思います。