2015年10月17日土曜日

スタンリー・ドーネン 『パリの恋人』














ミュージカルのテンポの良さと
エンターテインメント性に
特化した映画


 オードリー・ヘップバーン主演の「パリの恋人」。本当に楽しい映画ですね!
 この映画は基本的にミュージカル仕立てなのですが、型にはまらず様々な趣向を凝らしていて、ストーリーの展開や流れがいいところが最大の魅力です。しかもお洒落でエレガント、かつユーモアたっぷりで、時にホロリとさせる心憎い映画なのです。

 監督のスタンリー・ドーネンは、名作『雨に唄えば』をはじめとする数々のミュージカル作品を手がけたミュージカル畑出身の人ですが、さすがに見せどころを良く知っていますね。
 たとえばミュージカルの大スター、フレッド・アステアと雑誌の編集長役ケイ・トンプスンがパリを舞台に繰り広げる華麗でキレのあるダンスは鳥肌が立つほど素晴らしいですし、流麗な音楽やファッション雑誌をめくるようなカット割りの効果によって、生き生きとしたエネルギーが伝わってくるのです。

 公開されたのが1957年ということを考えれば、当時としてはかなりモダンで斬新なテイストの映画であったことは間違いありません。とにかく全編にクリエイティブな雰囲気が満ち満ちていて、あらゆる観点から楽しめる演出が最高なのです。


ヘップバーンの魅力を
引き出した映画

 しかし、この映画の成功の一つとして、やはりオードリー・ヘップバーンの存在をあげないわけにはいかないでしょう。

 歌は決して上手ではないし、踊りも二人の名人に比べれば遜色があるのは致し方ないところなのですが、むしろそれがかえってこの映画に潤いや新鮮味を与えているのですね……。フレッド・アステアと現像所の薄明かりで踊るシーンの美しさはたとえようがありませんし、図書館で独りしみじみと歌うガーシュインの"How long has this been going on"の無垢な眼差しと情緒は他の女優さんからは決して得られないものといっていいでしょう。まるで、俗世間に咲いた野の花や妖精のように可憐な魅力をふりまき、私たちを魅了するのです。

 やがて、オードリーは当時のモードファッションを次々に披露していくのですが、不思議とその輝くような個性と相まって古臭さを感じませんし、忘れ難い印象を残すのです。
 『ファニーフェイス』(個性的で魅力ある顔立ち)という原題のタイトルはオードリーにこそふさわしいのか……と思ってしまいますね。
 とにかく古きよきミュージカル黄金時代の面影を残す『パリの恋人』はエンターテイメント好きの方々にとってはたまらない作品と言えるでしょう!





2015年10月7日水曜日

「モネ展」を鑑賞して





クロード・モネ 《バラの小道、ジヴェルニー》1920-22年 油彩、カンヴァス






クロード・モネ 《睡蓮》1907年 油彩、カンヴァス





やはり凄かった
モネ人気

 今回のモネ展(2015年9月19日~12月13日、東京都美術館)はマルモッタン美術館所蔵の作品展ということで、『印象・日の出』をはじめとする作品の数々が大変に見応えがありました。
 東京都美術館のロビーに着いて驚いたのは平日の午前中にもかかわらず、入場者がとても多かったことですね……。チケット売り場もかなりの列が出来ていて、購入するまで10分はかかったでしょうか。そして、入り口に入るとまた人が多いこと多いこと……。それぞれの絵の周囲には人だかりができていて、じっくり鑑賞するという雰囲気ではありません。
 これが土日だったら、どんな感じになるのでしょうか。改めてモネ人気の高さを実感いたしました。

 さて、肝心の絵のほうですが、無理してまんべんなく絵を見るよりは、自分が見たい絵だけをじっくり見ようという思考にいつのまにか意識転換されている自分を発見しました……。
 この際、初期の作品や比較的アカデミックな作品は素通りさせていただいて、意欲作や睡蓮シリーズ、晩年の作品を集中的に鑑賞することにしたのです!



迫力と気力に圧倒される
晩年の作品の数々

 でも、意外とこれが良かったのかもしれません。後半の睡蓮シリーズあたりからようやくスペースが確保できるようになり、落ち着いて絵を眺められるようになったのです。
 私にとって、今回の展覧会の最大の収穫はモネが白内障に冒されてから描いたといわれる晩年の絵の数々です。これは本当に凄いですね!一様に厚く盛られた絵の具と何かを求めるようにアプローチされた色彩のタッチが強く訴えかけてきます。

 もはや具象ならぬ抽象という感覚の絵ばかりなのですが、どんなに視力が衰え、形が思うようにとれなくなっても、画家の心の内に描きたいテーマや創作への強い意志がある限り、創作は可能なのだということを改めて教えられた気がします。気迫に溢れ、飽くなき挑戦に貫かれた絵の存在感は圧倒的で、これらの絵を見るだけでも展覧会に来たかいがありました。

 またライフワークとも言われる『睡蓮』シリーズはやはり神秘的で素晴らしく、モネはこの睡蓮と水面や水面に移る光景に小宇宙のような何か特別なものを感じとっていたのかもしれませんね……。
 代表作『印象・日の出』の東京都美術館での展示は10月中旬までとありますが、それを欠いたとしても充分に補ってあまりある見応えのある展覧会といえるでしょう。





2015年9月29日火曜日

ストラヴィンスキー  『プルチネルラ』













ストラヴィンスキーの
異色の作品


 ストラヴィンスキーの音楽と言えば、バレエ音楽の「春の祭典」や「ペトルーシュカ」を思い出される方が大多数でしょう。しかし両曲の強烈なイメージゆえに、ストラヴィンスキーの作品は「どうも苦手だな……」という方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 でもご安心ください。
 ストラヴィンスキーのバレエ音楽にも、とても親しみやすい作品があります。
 それが「プルチネルラ」です。「春の祭典」で現代的な和音を表出したり、抽象的なリズムの迫力を示したのとはまるで違う作曲法に、きっと多くの方が驚かれることでしょう。
 このバレエ音楽には原曲があり、それが18世紀イタリアの作曲家ペルゴレージの作品だというのです。

 とはいうものの、ストラヴィンスキーは原曲をかなり現代風にアレンジしており、それがこの作品を新古典主義と称されるように聴きやすく親しみやすいものにしているのかもしれません。原作は仮面に潜む人間の本質や恋愛感情を劇にしたコミカルな作品ですが、全体を通しても35分から40分程の短い曲で大変聴きやすくなっています。たとえストーリーの展開がわからなかったとしても、管弦楽の楽しさや声楽の魅力が楽しいひとときを約束してくれることでしょう!
 またメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』のように管弦楽組曲として聴いてもかなり楽しめるかもしれませんね……。



変化に富んで楽しい
お茶目な作品

  何よりも楽器の扱い方の見事さとセンスの良さには唸るしかありません。ストラヴィンスキーは元来、色彩的な響きの表現に精通していている人ですが、この作品でもそれは充分に感じることができます。楽器の表情や音色には魅力があるし、フレッシュで楽しく、様々な旋律がぐんぐん心に響いてくるのです。それぞれのフレーズで美しく魅力的に聴こえる表情を実に巧みに作り出しているではありませんか……。

 たとえばスケルツィーノ、アレグロでの弦楽器やフルート、ピッコロ、オーボエ、ホルンが声を交わすように繰り広げられる部分は夢のようなハーモニーとなり楽しませてくれます。
 チェロ、コントラバス、トロンボーン、チューバ等の低音域の楽器がおどけたフレーズを繰り広げるヴィーボもユーモラスで楽しいですし、タランテラでの弦の無窮動のようなしなやかな旋律も幻想的な雰囲気を高めてくれます。しかも要所要所での雄弁でメリハリのある金管や弦楽器の奏法は、さすがに「春の祭典」で心理的効果音を表出した作曲家だけあってとても上手いですね!
 この作品には管弦楽組曲版と声楽が加わった全曲版がありますが、当然声楽入りの全曲版が味わい深いのは言うまでもありません。

 演奏は1980年の録音で少々古くなりましたが、ピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン(エラート)が素晴らしい演奏です。ブーレーズはストラヴィンスキーの音楽と相性がいいようで、ゆとりのある造型と楽器の音色の新鮮さやバランス感覚に魅了されます。声楽陣も全体的に安定していて、特にアンソニー・ロルフ・ジョンソンの美声と哀愁を漂わせた歌が最高です!




2015年9月24日木曜日

『モネ展 ―「印象、日の出」から「睡蓮」まで―』










モネの渾身の力作を
集めた展覧会

 既に9月19日から東京・上野の東京都立美術館で開催されている『モネ展 ―「印象、日の出」から「睡蓮」まで―』はマルモッタン美術館所蔵の作品を公開する展覧会です。

 このモネ展は2015年下半期の展覧会の中で注目の展覧会と言っていいでしょう。特にモネが印象派の産声を上げたとされる『印象・日の出』や晩年の『睡蓮』にいたるまで、モネの絵のエキスが詰まった絵の数々が大変見ものです!
 モネの創作の原点をたずねるという意味では必見の展覧会と言えるのではないでしょうか。

 なお、東京展の開催は12月13日までなのですが、今回の注目作のひとつ『印象・日の出』は10月13日までの展示になりますので、くれぐれもご注意ください……。



会期                2015年9月19日(土) ~ 12月13日(日)
会場                東京都美術館・企画棟 企画展示室
                 〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36
休室日        月曜日、10月13日(火)、11月24日(火)
                     ※ただし、10月12日(月・祝)、11月2日(月)、11月23日(月・祝)は開室
開室時間      9:30~17:30 (入室は閉室の30分前まで)
夜間開室      金曜日、10月31日(土)~11月2日(月)は9:30~20:00
                 (入室は閉室の30分前まで)
                    ※ただし、9月19日(土)~10月18日(日)の金曜日・土曜日、
                9月20日(日)~9月22日(火)、10月11日(日)は9:30~21:00
観覧料        当日券 | 一般 1,600円 / 学生 1,300円 /
                高校生 800円 / 65歳以上 1,000
                団体券 | 一般 1,400円 / 学生 1,100円 /
                高校生 600円 / 65歳以上 800
                ※団体割引の対象は20名以上
                ※中学生以下は無料
                ※9/19(土)~9/30(水)は高校生無料観覧日(学生証の提示が必要)

WEBサイト  http://www.ntv.co.jp/monet/









2015年9月14日月曜日

クロード・モネ 『印象・日の出』










画風を変えることは
制作上の必然性が伴う

 画家が絵を描くときに避けて通れないことがあります。
 それは自分に忠実にモチーフを見ようとすればするほど、画家の心に新たなスタイル(画風)への必然的な転換意識がどんどん沸き上がってくることと、画家として成長し進化するためにはその可能性を否定しないで受け入れることなのです。画家は基本的に商業デザイナーやイラストレーターではありませんので、制作上の制約はもちろんありません。いくらでも自分の思うがままにスタイルを変えることができます。

 しかしリスクもあります。スタイルを変えることによって、文化人や評論家、パトロンからまったく見向きされなくなったり、美術協会から追放されたり、過剰なバッシングを受けることも珍しくありません。それが急進的な画風であればあるほど風当たりは強いと言えるでしょう。

 ただし画家の制作ポリシーがしっかりしていると、そのようなバッシングや締め出しもいずれ時間が解決してくれるのです。

 印象派の旗揚げをしたと言ってもいいモネですが、彼も「印象・日の出」を発表した当初は大変な誤解と中傷を受けた人でした。この絵について「まだ未完成じゃないのか…」とか、「タッチが荒すぎる」、「手抜きだ」ととんでもない言いがかりをつけられたのでした。しかしモネは彼自身の中に描きたい絵のイメージが明確にありましたし、ちょっとやそっとではそのポリシーが崩れることはなかったのです。



物事の本質を鋭く見抜く目


 モネの絵は日本で非常に人気があります。それは日本人が四季折々の移り変わりや些細な変化に敏感なのと同様に、モネの絵には細やかな情感を映し出す感性のフィルターが備わっているからなのでしょう。

 モネは繊細な感性だけでなく、物事の本質を鋭く見抜く目も人一倍優れていました。モネの絵を見るとそれぞれの絵が静止した空間ではなく、呼吸をし、生きて語りかけるように私たちに迫ってきます。この「印象・日の出」も、モネ一流の目と感性が捉えた卓越した風景画と言えるでしょう。
 モネは決して絵画の新しい流派を立ち上げようと躍起になって描いたわけではなく、自分の感性を信じて描いていったら「たまたまこんな絵になった」というのが本音なのではないでしょうか……。

 この絵は文字通り、本格的に印象派が産声をあげるきっかけになった作品です。モネがこの作品を発表した当時はアカデミックな絵が主流の時代でした。

 モネがモチーフとしてよく選んだル・アーブル港。太陽が昇る瞬間といくぶん湿気を含んだ空気に朝もやが微妙に絡みつく気だるい早朝……。その様々な要素がこの絵に変化とドラマを生み出していますね…。瞬間を逃すまいと素早く的確に刻み込まれた筆のタッチは港の情景を生き生きと再現しています。おそらくモネは「今ここに立っている……」という臨場感や空気、肌で感じた偽らざる感覚を絵で訴えたかったのでしょう。
 空を覆う太陽の光、水面に映る光は同じところにとどまることなく、確かな時間の経過や動きを感じさせます。

 経験値やテクニック、頭で考えて常識的な範囲内で綺麗に絵をまとめたのではなく、自分が今、生きていることの紛れもない証、それこそが「印象・日の出」だったのかもしれません。





2015年9月6日日曜日

ハイドン テレジア・ミサ














ハイドンの音楽の魅力が
充満している作品

 すっかり朝晩涼しくなってまいりました。数週間前まで真夏の猛烈な暑さが続いたのが今となっては嘘のようですね。それにしてもここ数日の天気の急変ぶりには戸惑ってしまいます……。晴れているかと思えば、急に雨が降ってきたり、暑いのかと思えば夕方急に冷え込んだりと…、まだまだ油断出来ない気候が続いています。季節の変わり目ですので皆様、くれぐれも体調管理にはお気をつけくださいませ。

 さて、今回も前回に引き続きハイドンのミサ曲をとりあげたいと思います。今回は代表曲の一つにも数えられる「テレジア・ミサ」です。
 テレジア・ミサはハイドンの数多くのミサ曲の中でも屈指の傑作といえるのではないでしょうか。とにかくキリエからアニュスデイまでの全編が聴き所満載です。そして構成や曲の展開もすこぶる充実しているのです。

 特にグロリアの充実感と言ったらどうでしょう! 音楽を聴く喜びと感動で心がいっぱいになります。最初のGloria in excelsis Deo(いと高きところに栄光あれ)はタイトルが示すとおり、格調高く威厳に満ちた響きがまさに天に通じるかのようです!
 それに続くGratias agimus tibi(感謝したてまつる)のアルトやテノール、バスの独唱、二重唱、三重唱の絶妙な声の饗宴と変化に富んだ展開はハイドンの大らかで豊かな人間性が最高に表わされたもので、それは合唱を伴いつつさらに深遠な世界を醸し出していきます。続く Quoniam tu solus sanctus(イエス=キリストよ 主のみ聖なり)の明るく優しさに満ちた響きも何とも言えない魅力をふりまきます!

 クレドやサンクトゥスの確固とした造型と揺るぎない音楽の展開は唖然とするほどですし、音楽の山場が何度も現れるような気がするほどです!
 また、ベネディクトゥスのあふれる希望と幸福感!ハイドンの音楽はいよいよ輝きと深い味わいを増し加えていきます……。

 アニュス・デイで厳粛な悲しみが告げられると、まもなく暗雲を吹き飛ばすかのようなフィナーレの合唱がやってきます!「主の平安を与えたまえ」は微笑みにあふれたフーガが活躍する最後の合唱で、中間部の絶妙な転調は広々とした天空の彼方へと連れ去られるようにも思えますね。まさにハイドンの音楽の粋がここにあると言ってもいいのではないでしょうか。

 ミサ曲が重苦しくて聴くのが辛いという方は、まずはこのテレジア・ミサをお聴きになられることを強くお薦めします!今までミサ曲に抱いてらっしゃったカトリックの典礼に基づく概念が、もしかしたらいい意味で覆されるかもしれません。それほどこのミサ曲は自由なイマジネーションと無垢な感動、希望にあふれた魅力作なのです!



リリングが辿り着いた
古楽とモダン楽器の長所を
融合した格調高い名演奏

 まず驚くのが録音の素晴らしさでしょう。それはただ単に音質がいいというのではなく、合唱とオーケストラのバランスが理想的な音量と臨場感で収録されているのです!
 大体このようなオーケストラを伴う声楽曲の場合はどちらかに音質が偏ってしまいがちなのですが、この録音にはそれがありません。
 分離の状態がとてもよく、合唱の様々なパートが美しく冴え渡って聞こえるのです。

 もちろん肝心の演奏がよくなければどんなに録音が良くても興ざめですが、これは合唱、ソリスト、オケ、指揮者の表現とすべてに素晴らしいのです!

 合唱は発声の美しさやハーモニーの透明感も保ちながら、躍動感やダイナミズムが伝わってくるし、何よりも音楽に心地よい流れがあります。
 この演奏は前回紹介した戦時のミサと同じアルバムに入っているのですが、戦時のミサが1992年の演奏だったのに対して、それから15年後の2007年の演奏です。この録音のほうがさらに生気にあふれていて素晴らしいと思うのは私だけでしょうか…? 

 恐らく15年の間にリリングは表現の幅を著しく拡げたのでしょう。古楽器奏法に近いスッキリとした造型と響きを基調にし、ヴィブラートを極力抑えた声楽パートの表現を施しながらも、従来のモダン楽器を踏襲した自然なフレージングやダイナミズムを良しとした表現は古楽かモダン楽器かで論議を呼ぶハイドンの作品のあり方に大きなヒントを与えてくれるようにも思います。

 従来通りのオーソドックスな名演奏としてはネヴィル・マリナー指揮ドレスデン・シュターツカペレとライプツィヒ放送合唱団、ワトキンソン(Ar)、マーシャル(S)、ルイス(T)、ホル(B)の録音(EMI)がオーケストラ、合唱の精度が非常に高く、安心して曲に浸ることができます。





2015年8月31日月曜日

ハイドン 戦時のミサ



















苦難の時代のミサ曲といえども
重苦しくならない
ハイドンの傑作

 ハイドンは交響曲や弦楽四重奏曲はもちろんのこと、ミサ曲でも堅苦しくない魅力あふれる数多くの作品を世に送り出しました。しかし、たった1曲だけネーミングからして取っつきにくそうな曲があります……。それが通称「戦時のミサ」と呼ばれる「パウケン・ミサ」なのです。

 このミサ曲の標題から「何やら戦争にまつわる重苦しい作品なのかな」と思われる方も多いのではないでしょうか。しかし、実際はかなり様子が違います。

 何を隠そう、「戦時のミサ」は戦争をテーマにした作品ではなく、作曲された18世紀末当時のオーストリア情勢が非常に緊迫したものだったことに起因しているのです。当時ナポレオンをはじめとするフランス軍はオーストリア方面を激しく攻め立て、1809年には遂にウイーンを陥落させたのでした。そのような時代的な背景もあって、ハイドンはこの作品を戦時のミサとしてスコアに描き込んでいたというのですが、その気持ちもわかるような気がいたします……。

 さて「戦時のミサ」ですが、この作品はミサ曲というだけにとどまらず、純粋に作品としても魅力的ですし立派です。まず、キリエ冒頭のなごやかで落ち着いた合唱からしてハイドンの優しさと度量の大きさを感じますね……。主部は生き生きとしたリズムと無垢なメロディが心地よく、連続して現れる主題の展開の見事さに息をのみます。何という天才的な筆の冴えなのでしょうか!

 グロリアやクレドの無垢で多彩な迫力も充実していていますが、感動的なのはアニュス・デイでしょう。 祈り、悲痛な想い、回想やら、様々な情感が込められたこの音楽はティンパニの音と共に刻々と表情を変えつつ、決然たる意志と勇気を導き出していきます! 全体を通して苦難の時代のミサ曲といえども決して深刻になったり暗くならないところがハイドンの偉大なところかもしれません!



透明感あふれる
ガーディナー盤と
立体的なリリング盤

 演奏でメリハリが効き、純粋に聴いていて美しく飽きさせないのはジョン・エリオット・ガーディナーとモンテヴェルディ合唱団のCD(Philips)でしょう。
特にキリエの絶妙なハーモニーの美しさに加え、聴かせどころをしっかりと捉えた表現は最高です!

 グロリア、クレド、サンクトゥスもまったく窮屈さを感じることがありませんが、特に素晴らしいのはアニュス・デイ! 静かで深い祈りに満ちた声の響きが陰影を伴って作品の魅力を際だたせていきます。 ファンファーレのように鳴り響くアレグロの部分も熱気を帯びながら聴く者を興奮の渦に巻き込んでいきます。

 立体的な音の構築が素晴らしく、音楽を聴く喜びでいっぱいに満たしてくれるのがヘルムート・リリング指揮シュトゥットガルト室内管弦楽団およびゲヒンゲン聖歌隊(ヘンスラー)の演奏です。細部の表情こそガーディナー盤に一歩譲りますが、密度の濃い声の響きや安定したハーモニー、柔らかく強靱なオケの音色は何度聴いても飽きませんし、ハイドンの音楽の魅力に改めて気づかせてくれる演奏と言ってもいいでしょう! ソリストもそれぞれに素晴らしいのが特徴です。