2010年5月31日月曜日

国立西洋美術館常設展4



第4回 コロー 「ナポリの浜の思い出」




ジャン=バティスト=カミーユ・コロー
(Jean-Baptiste Camille Corot 1796年〜1875年)


 この絵はコローの晩年の絵ですが、この頃の彼の絵を見ると、くすんだ色調の中にいつも穏やかな風が流れていることに気づかされます。この絵も例にもれず、樹々が風に揺れて、ざわざわとささやきかけるような風情が伝わってきます。
 おそらく、この人にとって風に揺れる樹々のたたずまいはとても心癒される思い出だったのでしょう。時間がゆるやかに流れ、瞑想にも似た豊かなこの体験が得も言えぬ至福の瞬間を生み出しているのです。現実と悲現実的なモチーフを配置し、普通はよほど熟練した構成力がないともたない仮想空間の設定で、彼は地味で枯れた画風ながらも独自の画風を作り上げているのです。



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2010年5月18日火曜日

国立西洋美術館常設展3



第3回 ミレー 春(ダフニスとクロエ)


Spring (Daphnis and Chloë) Jean-François Millet 
油彩235.5×134.5 1865年 国立西洋美術館

 
 この作品は西洋美術館をはじめて訪れた時から、とても好きになり、今も自分にとっては懐かしい心に残る1枚です。

「春」はフランスの実業家から依頼された四季四部作の一つだそうです。この絵の魅力はまず構図が素晴らしいことでしょう。自然の中で静かに展開されていく少年、少女のやりとり、その光景はほほえましく、平和の詩を奏でているかのようです。安定した構図に支えられ、春の穏やかな陽光に映えるダフニスとクロエは周囲の環境からも祝福されているように感じられます。


 何よりも素晴らしいのはミレーがこの絵を愛情をこめて丹念に描いていることでしょう。その想いが美しい肌色、柔和な色彩等からよく伝わってきます。ゴッホやセザンヌ、ピカソのようにメッセージ性の強い絵ではありませんが、ミレーの絵に対するひたむきで純粋な思いが感じられる愛すべき絵です。




 

2010年5月8日土曜日

国立西洋美術館常設展2




第2回 クロード・モネ「雪のアルジャントゥイユ」


クロード・モネ(Claude Monet 1840年〜1926年)


 この絵の魅力は何と言っても、日常的な冬の情景の一コマを画家自身が共感を持って描き上げたことに尽きると思います。特に雪が美しく、さわやかに描かれていることに皆様はすぐにお気づきのことでしょう。モネがこの絵を描いた時、雪がかすかな光に反射して、とても神秘的に美しく輝くように見えたのだと思います。
 一般的に雪の情景を描くとどうしても暗く重々しい雰囲気になってしまうことが多いのですが、モネはそれを避けたかったのかもしれません。ですからこの絵では冬の寒々しい風景ではなく、希望がほのかに伝わってくる非常に好感のもてる絵になっているのです。
 モネは昔から、日本人に大変人気がありました。こんな絵を見ると、四季折々の変化に敏感な日本人の感性にとてもマッチしていたのかもしれませんね。なぜ日本で人気があるのかがわかるるような気がします。


2010年5月5日水曜日

国立西洋美術館常設展1







 先日、上野の国立西洋美術館に行ってきました。私は学生時代に疲れるとよくここにやってきて絵を眺めながら時間を過ごしたものです。またそれが最高の気分転換になったりしたものでした。
 上野公園内という土地柄か、変に気取らず、わりと自由な雰囲気でありながら、それでいて文化の香りが漂う雰囲気が大好きだったのだと思います。最近は町おこしという名目で、突然美術館や博物館が建設されたりしますが、正直、よそよそしく場にそぐわないことが大半です。もちろん、上野の西洋美術館は何の違和感無く自然に街に溶け込んでいることは言うまでもありません。やはり歴史と伝統のなせる技かなと痛感いたします。 特に常設展の絵は思い出深く、ミレーの「ダフニスとクロエ」やクールベの「波」等はお気に入りで、事あるごとにポストカードを購入したのも懐かしい思い出されます。


前置きが長くなってしまいましたが、今回観て改めて気になった常設展の絵画を改めてご紹介したいと思います。



第1回 マルケ 「レ・サーブル・ドロンヌ」


 アルベール・マルケ(Albert Marquet, 1875~1947)


 一見、「ヘタウマ」に見えるその画風……。これなら私でも簡単に描けそう♪!と思わず感じてしまうほど、とにかく、ラフスケッチをもっと簡単にしたようなタッチとあっさりとした色使いは妙に素人の私たちに安心感と親近感を与えてくれたりします。
 しかし、よく見るとマルケはただ者でないことが次第にわかってきます。まず、さらりと流したようなその画風の味のあること……。この海の絵も波の動きや人物の描写にこだわりを捨て、無駄を一掃した潔さが伝わってきます。結果、出しゃばったり、大袈裟な演出はないものの、この海の絵からさりげない詩情がじわじわとにじんでくるのです。前方に寄せる波からも静かな動きや音が心地よい風を伴って癒しの世界をつくりあげているではありませんか!

 マルケはフォービズム(野獣派)の画家だったという声がありますが、この絵を見ていると流派は何であれ、「絵が良ければ何の問題も無いんじゃないの」と思えてくるから不思議です。

2010年4月27日火曜日

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101









大きな物の見方が要求されるベートーヴェンの作品

 「木を見て森を見ず」ということわざがあります。これは細かい所には気が付くけど、全体を把握できなかったり、大きな物の見方が出来なかったりなどの意味があります。当然そのことによって大事なものを見落としやすくなったりするわけです。おそらくほとんどの方はこの意味をご存知でしょう。 

 芸術にあてはめれば、ピアノの演奏やヴァイオリンの演奏も然りであり、絵を描くこと等も当然あてはめられるでしょう。これは人として生きていく上で、すべてのことにあてはまる普遍的な真実なのかもしれません。しかし音楽の演奏スタイルに関して言えば、タッチを装飾的に弾いてみたり、曲のイメージを壊さないようにすっきりと弾いてみたりとさまざまな表現が可能になってきます。

 演奏家がシューマンやショパン、シューベルト、リスト、メンデルスゾーン、ドビュッシー等の美しい音色を持つ作曲家の作品を演奏する場合、磨き抜かれたテクニックやタッチで音楽を築きあげることも可能でしょう。ニュアンスの変化や微妙な崩し方で魅力的に仕上げることも可能ですし、パーツパーツを凝ることも可能だと思います。もちろん、誤解のないよう申しますが、これらの作曲家の作品が「木を見て森を見ず」と言うわけではまったくありませんので悪しからず。

 これに対し、ベートーヴェンの作品は「木を見て森を見ず」という格言がほとんどあてはまらないのではないでしょうか。そのあたりが他の作曲家と同類に語ることが出来ない特異性なのだと思います。



人生の苦難を超えた成熟した大人の心のゆとり「Op.101」

 ベートーヴェンといえば汗が滴り落ちても一切それを拭わない、なりふり構わず前進する剛毅な姿こそ彼の最大の魅力と言っても過言ではないでしょう。
  交響曲第5番やピアノソナタ「熱情」はその端的な例です。 しかし、後期の28.29.30.31.32番のピアノソナタあたりは中期の壮絶な内面の格闘を基調にしたイメージとはかなり趣きが異なってきます。特にここでとりあげるピアノソナタ28番はそれまでのベートーヴェンのイメージとはかなり様変わりしていることに気づかれるに違いありません。

   ここにはあらゆる意味で人生の苦難を超えた成熟した大人の心のゆとりが聴きとれるのです。しかも、優しさが漂い、ちょっとした寂しさや悲しみの中にも、それを覆い尽くすような海のような淀みない魂が広がっているのです。

 人は一朝一夕にこのような境地に到達できるものではありません。ひたすら透明で深い詩情を湛えながらも、何事にもビクともしないベートーヴェン特有の骨太さが例えようのない聴き応えを与えてくれるのです。体裁を繕う自己主張や虚栄心や表面的な泣き笑いがとてもナンセンスに聴こえて しまうほどの真実性がここには広がっているのです。



安心して聴けるバックハウスの演奏

 演奏も当然、他の作曲家とは違うアプローチが必要になってきます。まず言えるのは小手先だけのテクニックは通用しないということでしょう。卓越したテクニックで小気味よく弾いても、場合によっては演奏家の空疎な精神性が露になってしまう危険性を充分にはらんでいるのです。そのような意味でも演奏家にとってはまったく油断のできない恐ろしい作曲家なのです。

  ところで、この作品に関しては、なかなかいい演奏が少なく、改めて曲の表現の難しさを痛感するばかりです。あえてあげれば、バックハウス盤(Decca)ということになるでしょう。この人は、ベートーヴェンの作品に関しては一つのスタンダードとして定着しており、確かにその演奏の数々は自信と確信に満ちています。この28番の演奏もまったくテクニックに走ることはなく、ひたすらベートーヴェンの心の息吹や内面の美を伝えることにのみ心が注がれているように感じます。

  したがって、時にタッチがもつれたり、不揃いになったりすることもありますが、そのような些細な欠点をも長所に変えてしまう非常に意義深い素晴らしい演奏と言えるでしょう。


2010年4月17日土曜日

モーツァルト ピアノ協奏曲第23番K488




ザルツブルグの風景



 先日、モーツアルトの交響曲は正装したフォーマルな作品群だとお伝えしました。ピアノ協奏曲はどうかというと、交響曲ほどはかしこまらず、さりとてオペラほど開放的でもない。つまり、ほどよくカジュアルで、ほどよく気品と格調を兼ね備えた魅力的な作品群ということになるのではないでしょうか。
 今日は後期の名作ピアノ協奏曲第23番についてお話しします。この作品は、幸福感と爽やかな叙情が全体の雰囲気を作っていて、聴く人の心に様々なイマジネーションを想起させてくれます。しかもいつ聴いてもたった今、作品が生まれてきたかのような新鮮さに満ち満ちているのです。

 モーツァルト自身も心身ともに充実し、未来への希望を抱いていた時代だったのでしょう。メロディやリズムは聴く人をたちどころに幸福感で包みます。第3楽章フィナーレの流れるようなメロディや弾むリズムに彩られた夢幻のファンタジーはまさにそうでしょう。第2楽章アダージョのはらはらと流れる涙を止めることもなく、ひたすら哀しみにうちひしがれるような名旋律も1度聴いたら忘れられません。この哀しみも内に沈む孤独なものではなく、より普遍的なものへの埋め尽くせないわびしさを託したようなメロディなので決して暗くなることがないのです。
 日本画の大家、東山魁夷がこの2楽章をイメージして絵を描いたというのは有名な話ですが、確かに透明感があり、澄み切った美しいこのメロディは創作欲をかきたてる何かがあるのかもしれません。

 第1楽章は両楽章に比べれば際立った魅力と個性に乏しいようにも思われますが、それがなかなかどうして、さすがはモーツアルト!しっかりと両楽章への橋渡しをする大切な役目を担わせているのです。
 この楽章では澄み切った青空やのどかな雲の流れ、色とりどりに咲く花々を思わせる風光明美でパステルカラー調のイメージが描かれていきます。
そして、時に音楽のピークの部分ではそれがキラキラと輝き、虹色にさえ変幻し胸を膨らませていくのです。

 魅力作だけあって、演奏は実に沢山あります。けれども、この清新な曲調のイメージを壊さず、本質を掴んだ指揮するのは本当に難しいようです。
 そのような中でハイドシェックのピアノ、ヴァンデルノートが指揮したCDはモーツアルトの愉悦や夢幻のファンタジーを最高に再現しています。この演奏は即興的な面白さにも優れ、モーツァルトが描きたかったのはこんな情景なんだろうなと思わせるのです。特に第3楽章の早めのテンポの中に繰り広げられる夢幻のファンタジーは絶品です。




2010年4月6日火曜日

モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」ハ長調K.551



モーツァルトが生まれ育ったザルツブルグの風景




 モーツァルトは不思議な作曲家です。というのは、明らかにジャンルによって作曲のスタイルを変えているようでならないのです。たとえば最も得意とするオペラでは上流社会の破廉恥なドタバタを痛烈に皮肉った挙句、生き生きとした特上の作品を作りあげてしまいます。
 かと思えば、ピアノソナタやヴァイオリンソナタでは鼻歌交じりの上機嫌なメロディをいとも簡単に作りあげてしまうのです。また、セレナーデでは当時のロココ調のスタイルに合わせた作品が見事にすんなりとできてしまいます。こういうところにもモーツァルトの天才性が遺憾なく発揮されているのかもしれませんね。
 では交響曲はどうかというと、ここではプライベートなモーツァルトではなく、フォーマルなキチッと正装した音楽になっているのです。

 ですから、たとえセレナーデは「甘ったるい」とか、オペラは「下品だ」と非難されても、交響曲について生理的に受け入れられないという声はあまり聞きません。モーツァルト最後の交響曲41番「ジュピター」はその最たるものでしょう。この作品はロココ調の要素もあるし、ロマンティックな要素もあります。しかし、全体を一貫しているのは宇宙的で形而上的な楽想なのです。この作品の凄いところは、晴朗な輝かしい曲にもかかわらず、実は非常に内面的に深化され、純化された音楽となっていることでしょう。
 
 第1楽章は人生の重荷をいっぱい抱えながらも、それを一切表には出さず、音楽はドンドンと前進していきます。第2楽章は優美なメロディですが、展開部は魂の深淵を覗き込むような恐ろしい表情も垣間見られます。しかし、音楽は決して重々しくなることはありません。スケール豊かに展開される第3楽章のメヌエットも見事です。第4楽章のフーガは昔から「神が与えた音楽の奇跡」とさえ言われ、絶賛されてきました。しかし、この楽章にも哀しみや孤独、苦しみといった負の感情が散りばめられているのですが、それとは気付かないくらい透明感や崇高な音の光が気高さの中に色濃く流れているのです。もちろん、ベートーヴェンのような勝利の賛歌にはなりませんが、モーツアルト特有の透徹した美しさが何とも言えない魅力を醸し出しています。人間くさい様々な感情もここでは、昇華された至高の音楽になっているのです。

 パブロ・カザルスが指揮したマールボロ祝祭管弦楽団は決して大人数のオーケストラではありませんが、音色は大オーケストラにも負けない非常に気迫のこもった音を奏でています。「ジュピター」では出だしから気迫みなぎる音が奏でられます。第1楽章の怒涛のように押し寄せる感情の波は苦しみを乗り越えるべく必死にあえでいるかのようです。第2楽章の深い呼吸で奏されるカンタビーレは様々な表情を伝え、魂の鎮魂歌のような趣さえも湛えていきます。第3楽章の緊張感と自在感に満ちた表現も立派。第4楽章のなりふり構わず前進する演奏に圧倒されながら、ついに見事なフィナーレを迎えていきます。これはカザルスが残したベストパフォーマンスの一つでしょう!