2016年8月19日金曜日

ヘンデル 「アレクサンダーの饗宴」







親しみやすく
内容の濃いオード

 ヘンデルのオラトリオというと、劇的でスケールの大きい作品を連想しがちなのですが、「アレクサンダーの饗宴」はちょっと違います。元々この作品は通常のオラトリオではなく、頌歌(オード)として作曲されたようです。

 オードとはいうものの、そこはヘンデルのことですから単に襟を正した生真面目な曲を作るはずがありません。清澄で格調高い曲調を充分に保ちながらも、やりたいことをやりつくしているのです。親しみやすく覚えやすいアリアや合唱が連続して出てくるのもヘンデルならではですし、聴く者は自然にその音楽の懐に引き寄せられるともいえるでしょう…。
 合奏協奏曲第3番にも転用されている同名のタイトル「アレクサンダーの饗宴」を第2幕の前に置いたのも当時の聴衆を飽きさせないためのヘンデルの巧みな戦略だったのでしょう。何とこの合奏協奏曲は間奏曲としては珍しい3楽章形式になっており、ヘンデルがあらかじめ合奏協奏曲に転用するのを見込んで作られたと言えなくもないですね。


ヘンデルの音楽の多彩な魅力と
構成のうまさ

 この作品を通して聴いて改めて感じるのはヘンデルの音楽の多彩な魅力と構成のうまさです。序曲にしても一度聴いた限りでは単純明快な音楽かと思いきや……、実は非常にこなれていて自然な高揚感を演出する魅力作ですし、合唱にしても立体的で様々な表情を生み出します。アリアにしても間奏曲にしても音楽は終始変化に富んでいて、生き生きとしたリズムやメロディが弾けるのです。

 印象深いのは合唱の効果的な配置とアリアや伴奏等の型にはまらない奔放な魅力にあふれていることです。ヘンデルは声や楽器の響きの特徴・性質とか、全体を俯瞰する音楽的な構成力が際立って優れていたのでしょう!それはこの「アレクサンダーの饗宴」でも充分に生きているようです。

 特に印象深いのは前述の序曲と第一幕の栄光を現す合唱「The many rend the skies with loud applause」と微笑みに満ちたソプラノのアリア「With ravish'd ears」、第2幕フィナーレの合唱「Your voices tune」の大河の流れのような壮大な叙情詩です。


ガーディナーの独特のテンポと
音楽を聴かせる術


 これは当時ヘンデルのオラトリオを続々と演奏・録音していたガーディナーの貴重な記録と言っていいでしょう。テンポが比較的速く、リズムも切れ味鋭く、従来のヘンデル像とは大きくかけ離れた演奏で随分と話題になったものでした。

 とにかく聴かせ上手で、リズムはガーディナー独特のものなのですが、音楽の本質とぴたりとはまっているために違和感がありません。合奏協奏曲での独特のテンポとリズムはガーディナーだからこそ表現できたものでしょう。
 スタイリッシュでスマートな造型は新しい時代の幕開けを告げるにふさわしいものだったでしょうし、合唱の精緻でバランスのとれた美しさ、歌手たちのガーディナーの解釈に寄り添う表現も見事です!








2016年8月9日火曜日

ドビュッシー 子供の領分


















子供たちのピュアな感性と
大人が見つめる温かな眼差しが
融合された音楽
 ドビュッシーの作品としては比較的親しみやすく、人気が高いのが『子供の領分』です。
タイトルから想像できるように、子供たちのピュアな感性をテーマにしているのですが、大人が見つめる温かな眼差しがそこにプラスされていて、極めて詩情豊かな作品として仕上がっているのです。
 これはドビュッシーの卓越した感性だからこそ作り得た作品でしょうし、その創造性に富んだユニークな音楽は大人が愛する子供に聴かせる音楽絵本と言ってもいいでしょう。
 実はこの作品、ドビュッシーが初めて授かった娘(長女クロード・エマ)への想いを込めて書かれているのです。

日常の光景が
美しく変貌する瞬間
 まず、前奏なしでいきなり主題が開始される第1曲 「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」は何と上機嫌でユーモアたっぷりなのでしょう! もちろん音楽は楽しいだけではありません。生き生きとしていて、曲が進むと美しい表情が次々と紡ぎ出されていきます。特に中間部の虹を想わせる音色は日常の光景が美しい輝きを放っていくかのようです。
 おどけたリズムとテーマの「象の子守歌」も童心を呼び覚ますのに充分ですし。可愛らしい音色が夢の世界を描き出す「人形ヘのセレナーデ」も絶品です。どなたもよくご存知「ゴリウォーグのケークウォーク」はどういうわけかテレビで使用されるときは「ジャポニズム」を扱ったり、「浮世絵と印象派」のようなアートと日本との接点を匂わせる趣旨の番組が多いのは何故なのでしょうか? たぶん、それだけ曲が異国情緒にあふれており、様式に固執しないドビュッシーの才気があふれているからなのかもしれません。
 しかし、この作品をより魅力的にしているのは第4曲の「雪は踊っている」と第5曲の「小さな羊飼い」でしょう。「雪は踊っている」は窓辺で降りしきる雪をじっとみつめている子供たちの様子を描いているのですが、雪が舞う動的なリズムとテーマが印象的です。次第に振り続ける雪は雪の精へと変貌し幻想的な雰囲気であたりを覆っていくのです。
 「小さな羊飼い」は幼い胸に秘められた短い詩のようです。切々と弾かれるピアノの陰影や1小節ごとの間合いが何ともいえない情感を醸しだし、愛おしさや懐かしさがじんわりと漂っていきます。

ハイドシェックとベロフ
クリエイティブな名演
 このピアノ曲は曲の性質上、演奏には少なからず夢を膨らます詩情豊かな感性や創造性が要求されます。たとえどんなにテクニックが優れ、演奏が立派でも四角四面の解釈はつまらないし、似合わないのです。
 その点で優れているのはエリック・ハイドシェックとミシェル・ベロフでしょう。
ハイドシェックとベロフに共通するのはとことん音楽を愛し、愉しんで弾いてるところですね。
 ハイドシェック(キングレコード)の演奏は型にはまらない変幻自在なスタイルをとっているのですが、音色に柔らかさがあるのと音符の読みが深いため、各曲ともに新鮮な驚きと感動があります。聴く人の心に発見や様々なイメージを呼び起こす魔法のような名演奏と言えるかもしれません。
 ベロフの演奏(DENON)は音色が豊かで、リズムは弾み、造型はキリッとしていて、フレージングも自然! どこをとっても音楽性満点で、特別なことはしていないはずなのにドビュッシーを聴く喜ぶを最大限に与えてくれます。最初に「子供の領分」を聴くならベロフは絶対的にお勧めですね!

2016年7月23日土曜日

ドビュッシー ベルガマスク組曲(2)

















ドビュッシーでしか作れない
透明なハーモニー、
色彩のニュアンス
  ドビュッシーの初期の名曲といえば、何と言っても『ベルガマスク組曲』を外すわけにはいきません……。この作品の素晴らしいところは何度聴いても飽きない豊かなポエジーと自然な情感が音楽として息づいているところでしょう。
 もちろん、ベートーヴェンのような精神的な音のドラマとは無縁ですし、モーツァルトのような流麗なソナタ形式で書かれているわけでもありません。
 また、『ベルガマスク組曲』はドビュッシーが音楽スタイルを確立する以前の作品ということで、「先人たちや大作曲家からの影響が濃い作品だ」と言われたり、後年の傑作『前奏曲』や『映像』、『版画』と比べると軽視される傾向があるように思います。
 しかし、その音楽はまぎれもなくドビュッシーでしか作れないもので、透明なハーモニー、色彩的なニュアンスや洗練された音色の効果は抜群で、聴けば聴くほどに味わいが増すのも事実なのです。

さまざまな情感を映し出す
詩情豊かな音楽
 まずプレリュードの自由でとらわれのない旋律が生み出す光と影のコントラスト、そして透明な色彩のハーモニー!何という詩的な情感の美しさであり、感覚的な冴えでしょうか。
 第2楽章メヌエットの洗練されたリズムやメロディは優しく頬を撫でる風のように心地よく、聴いているうちに懐かしい子守歌のようにさえ響いてくるではありませんか……。
 有名な第3楽章「月の光」は優雅で繊細、そして哀しみを堪えて綴られるメロディにひたひたと切なさがつのってきます。
 第4楽章パスピエも神秘的な色調の音に隠れる何とも言えないエレガントな旋律の魅力に心惹かれます。そして、全編を通じて主題や展開部のつなぎの音のさり気ないセンスの良さがますますイメージを広げてくれるのです。

フランス人ピアニストが
奏でる音色の魅力
 演奏が素晴らしいのはミシェル・ベロフ(DENON)が収録した録音です。まずプレリュードから音色の柔らかさと自然なフレージングに惹きつけられます。それは全編に渡って言えることで、センス満点の表現と無理なく作品の本質を引き出した音楽性は見事です。
 パスカル・ロジェ(Onyx)の演奏もほぼ同様の事が言えるのですが、ベロフ以上にフランス的なエスプリが効いています。表現のメリハリを求める方にとってはやや物足りなく感じるかもしれませんが、フランス人作曲家ドビュッシーを聴きたい方にとってはファーストチョイスになるのでしょうか……。
 心ゆくまでメロディや雰囲気を味わいたい方にとってはモニク・アース盤(エラート)がいいかもしれません。決してあせらず急がず、魅惑のメロディを女性的なデリカシーと格調高い表現で豊かに謳い上げています。

2016年7月12日火曜日

「メアリー・カサット展」





《眠たい子どもを沐浴させる母親》
1880年 油彩・カンヴァス、ロサンゼルス郡立美術館蔵





日本で35年ぶりに開催される
懐かしい展覧会

 この人の展覧会が日本で開催されるのは35年ぶりだそうですね。
 私はその35年前の展覧会をしっかりと覚えています。実をいうと、カサットという女流画家を知ったのはこの時が初めてでした。
 東京・新宿の伊勢丹デパートの特設会場で開催されたのですが、テレビや新聞等の宣伝効果もあったのか大変な盛況ぶりでした。特に女性でしか描けないような優しさと柔和な表情の母子像は絶品と言えるでしょう。描画スタイルが変わろうとも描かれる絵に嫌味がなく、多くの人に愛されるのは生来の愛情豊かで気品あふれる人柄が作風として生きているからなのかもしれません。
 あれから35年、あの時と比べるとこの人の展覧会をめぐる周囲はずっと静かですが、印象派におけるカサットの存在は少しずつ大きくなっているような気がします。
 この機会にメアリー・カサットという人が画家としてだけでなく、女性として、母として、社会人として何を思い、どのように考えてきたのかを100点あまりの作品を鑑賞しながら、その世界に想いを馳せるのも悪くないでしょうし、味わい深いことかもしれませんね……。


【開催概要】

■横浜美術館
住  所:神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1
開催期間:2016年6月25日(土)~2016年9月11日(日)
開館時間:10:00~18:00 ※入館は閉館の30分前まで。
休館日 :木曜日 ※8/11を除く。
入場料 :一般1,600円(1,400円)、大学・高校生 1,100円(900円)、
    中学生 600円(400円)、小学生以下無料
    ※( )内は前売り/20名以上の団体料金(要事前予約)

■京都国立近代美術館
住  所:京都府京都市左京区岡崎円勝寺町
開催期間:2016年9月27日(火)~2016年12月4日(日)
開館時間:9:30~17:00 ※入館は閉館の30分前まで。
休館日 :月曜日 ※ただし、10/10(月・祝)は開館。
入場料 :一般1,500円(1,300円)、大学生 1,100円(900円)、
              高校生 600円(400円)
    ※( )内は前売り/20名以上の団体料金
    ※中学生以下、心身に障がいのある方とその付添者1名は無料(要証明)
    ※本展の入場券でコレクション展も観覧可能

【問い合わせ先】
横浜美術館     TEL:045-221-0300
京都国立近代美術館 TEL:075-761-4411





2016年7月8日金曜日

シューマン 『森の情景』



















愛のまなざしと詩的な描写

 シューマンといえば、なんといっても歌曲!
 『リーダークライス』、『ミルテの花』、『女の愛と生涯』、『詩人の恋』に代表される麗しい作品の数々は多くの歌手たちの憧れの的です。しかもこの珠玉のような作品群が同じ年に誕生した(1840年は実際に歌曲の年と言われている)というのは本当に驚きですね!
 歌曲の次にあげられるのはやはりピアノ曲でしょう。
 ピアノ曲では『クライスレリアーナ』や『幻想曲』のようにロマンチックなインスピレーションによって創作された作品が多いのですが、『子供の情景』のように子供を見つめる愛のまなざしを詩的に描写した作品も捨てがたい魅力があります。その『子供の情景』と同じような詩的な描写とスタイルで作曲されたのが『森の情景』です。
 ただし、『子供の情景』の幸福感に満ちた情緒とは対照的に、こちらはどちらというと黄昏にたたずむ人の切なさやわびしさのようなものがテーマになっているようです。叙情的ではあるけれども、一抹の寂寥感や幻想的な雰囲気が漂うところもこの曲を独特の色調に染め上げているといっていいでしょう。

多彩で味が濃い
『森の情景』

 私は音楽としては『子供の情景』よりも『森の情景』のほうに惹かれますね! 夢のようなロマン、人生の憂愁や孤独、そして無邪気な心……。テーマや旋律にしても、『子供の情景』よりずっと地味ですが、味が濃く、多彩な変化があって、シューマン独特のポエジーな世界も顔を覗かせながら、人生という尺度の中でショートストーリーのように展開されていくのです!

 特に第4曲の『予言の鳥』は付点のリズムを中心に、半音階のメロディが奏でる独特の音色が幻想的な別世界を想わせ、一度聴いたら忘れられないほどに心に深く刻み込まれることでしょう。かと思えば、『気味の悪い場所』での心の闇を想わせる切迫した心境は何ともやるせない気持ちになります。
 しかし、優しく愛情に満ちたまなざしも随所に現れます。
 一曲目の『森の入口』は見知らぬ世界へと足を踏み入れようとする期待と不安が入り混じった複雑な感覚を優しいまなざしで描いていきます。

 最終曲『別れ』は再出発を想わせる主題が希望の道筋をなだらかに描いていくようです。シューマンはこの短いフレーズで、自分自身の再起への気持ちも込めたかったのでしょうか……。後ろ髪をひかれるように過去への回想や叙情的なロマンが絡まりつつ曲を閉じます。雨上がりのような澄み切ったなつかしい情緒が辺りを照らしていくのがとても印象的です。
 これはシューマンの素直な感性やデリカシーがいっぱいに詰まった音楽絵本と言ってもいいかもしれません。



魅力作にもかかわらず
録音には恵まれず

 シューマンが比較的晩年に作曲した魅力作なのですが、録音にはあまり恵まれていません。
 演奏で最初に感動を受けたのはクリストフ・エッシェンバッハ盤(グラモフォン)でした。とにかく一音一音に表情が変化するデリケートな音色と感性の深さにはため息が出ますし、タッチのみずみずしさに魅了されます。エッシェンバッハはシューマンの伝えたかったロマンチシズムをそのごとく伝えきった詩人なのかもしれません。
 しかし、ご紹介したセットCDではどういうわけか4曲のみの抜粋盤になっています。もちろん音楽としては決定的に物足りないし、残念な状況なのですが、とりあえず貴重な記録として(何とか再販してほしいですね……)とりあげたいと思います。

 シプリアン・カツァリス(テルデック)はすべてにおいてクリアーなタッチと明確な表現が特徴で、シューマンの幻想的なムードやロマンチシズムを味わいたいという人には向かないかもしれません。でも、多くの名盤が廃盤の状況の中で、こんなにストレートな表現にもかかわらず、曲の魅力を自然に伝える技量と音楽性はやはり大したものです。





2016年7月2日土曜日

デューラー 『芝草』







草花に宿る
強い生命のエネルギー

 デューラーの『芝草』は有名な水彩画ですが、一般的によくある植物画とはちょっと違います。

 何が違うのかと言えば、線のタッチや、構図の取り方、色彩表現等が奇抜なわけではありません。ご覧の通り、表現方法は至ってシンプルですし、グイグイと正攻法で推した描画好きにはたまらないアカデミックの頂点とも言うべき絵なのです。

 かといって、シャルダンやドガの花の絵のように見て美しいわけではありません……。しかし、特別なことをしていないはずのに小宇宙を想わせるような存在感は圧倒的ですし、私たちに向かってそれぞれの草花が何かを語りかけてくるような気がします。 
 この絵を見ると草花は確かに呼吸をしていて、程度の差こそあれ人間のように様々な感情を持っているのではないかと思えてくるから不思議ですね……。 

 『芝草』はデューラーの明確で強い表現意図が感じられる絵です。それはおそらく草花に宿る強い生命のエネルギーや神秘を表現することだったのでしょう。それこそ一本一本の草花に神経が行き届き、血が通うその姿は、まさしく生命のエネルギーを放射するかのようで、私たちの心を掻き立ててやまないのです!



2016年6月26日日曜日

ポール・マザースキー  『ハリーとトント』










ロードムービーの傑作

 こういう映画って、撮れそうでなかなか撮れないのではないのでしょうか?
 仮に内容がネタバレしたとしても、この映画の良さは見ないことにはわからないでしょう。

 妻に先立たれ、ニューヨークのアパートで愛猫トントと暮らす年金暮らしのハリーが、区画整理で立ち退きを命ぜられたことから始まる様々な人々との出会いや交流を描いたロードムービーです。

 この映画のタイトルからすると猫のトントが主役級の扱いなのかと思ってしまいかねません。でも決してそうではなく、トントはハリーの思いがけない動向を左右する重要なキーパーソン(キーキャット?)になっているのです。
 たとえば娘のいるシカゴに向かう時、飛行機の手荷物検査がハリーには耐えられず、飛行機を断念してバスに乗り込みますが、バスの中でもハプニングが起きてしまい結局は途中で降りるようになってしまいます。でもこのことが様々な人との出会いを呼ぶことになるのですが……。

 成功の要因は一にも二にもハリーを演じるアート・カーニーの巧さでしょう。大らかで、決して上目づかいにものを言ったり、人を否定することなどしない。あくまでも人の話をよく聞き、忠告を素直に受け入れ、場を和ませる人柄と言ったら……。家族や出会った人々とのやりとりからそれがしみじみと伝わってくるのです。
 配役の設定もあるかもしれませんが、とにかくいい味を出しています。少しも気負ったところがなく、あくまでも自然体の演技なのです。できればこんなふうに年をとりたいものですね……。


シリアスな現実を
ユーモアとキャラクターの
魅力で包み込む

 この映画が制作された1970年代当時のアメリカはベトナム戦争で疲弊し、若者たちは心の行き場を失いドラッグに溺れる等、すべてにおいて自信を失った時代でした。
そのような時代を反映するエピソードもちらほらと交えながらも、ハリーからはそれを包み込む人間の大きさと大人の心のゆとりを感じるのです。

 はっとするような美しい場面も随所に現れます。
 たとえば、車を運転しているときに、ひとりごとのように出てくる亡き妻への想いやそれを見つめるトントや優しく包むピアノの調べ……。
 また、数十年ぶりに昔の恋人に会うために訪れた老人ホームで、時間のギャップを埋めるかのように二人で踊るダンスシーン……。いずれも切なさや優しさが込みあげてきて、時が止まったような感じさえする印象的なシーンです。

 シリアスな現実をユーモアとキャラクターの魅力のオブラートで包み込んだ愛すべき作品と言えるでしょう。