2016年7月8日金曜日

シューマン 『森の情景』



















愛のまなざしと詩的な描写

 シューマンといえば、なんといっても歌曲!
 『リーダークライス』、『ミルテの花』、『女の愛と生涯』、『詩人の恋』に代表される麗しい作品の数々は多くの歌手たちの憧れの的です。しかもこの珠玉のような作品群が同じ年に誕生した(1840年は実際に歌曲の年と言われている)というのは本当に驚きですね!
 歌曲の次にあげられるのはやはりピアノ曲でしょう。
 ピアノ曲では『クライスレリアーナ』や『幻想曲』のようにロマンチックなインスピレーションによって創作された作品が多いのですが、『子供の情景』のように子供を見つめる愛のまなざしを詩的に描写した作品も捨てがたい魅力があります。その『子供の情景』と同じような詩的な描写とスタイルで作曲されたのが『森の情景』です。
 ただし、『子供の情景』の幸福感に満ちた情緒とは対照的に、こちらはどちらというと黄昏にたたずむ人の切なさやわびしさのようなものがテーマになっているようです。叙情的ではあるけれども、一抹の寂寥感や幻想的な雰囲気が漂うところもこの曲を独特の色調に染め上げているといっていいでしょう。

多彩で味が濃い
『森の情景』

 私は音楽としては『子供の情景』よりも『森の情景』のほうに惹かれますね! 夢のようなロマン、人生の憂愁や孤独、そして無邪気な心……。テーマや旋律にしても、『子供の情景』よりずっと地味ですが、味が濃く、多彩な変化があって、シューマン独特のポエジーな世界も顔を覗かせながら、人生という尺度の中でショートストーリーのように展開されていくのです!

 特に第4曲の『予言の鳥』は付点のリズムを中心に、半音階のメロディが奏でる独特の音色が幻想的な別世界を想わせ、一度聴いたら忘れられないほどに心に深く刻み込まれることでしょう。かと思えば、『気味の悪い場所』での心の闇を想わせる切迫した心境は何ともやるせない気持ちになります。
 しかし、優しく愛情に満ちたまなざしも随所に現れます。
 一曲目の『森の入口』は見知らぬ世界へと足を踏み入れようとする期待と不安が入り混じった複雑な感覚を優しいまなざしで描いていきます。

 最終曲『別れ』は再出発を想わせる主題が希望の道筋をなだらかに描いていくようです。シューマンはこの短いフレーズで、自分自身の再起への気持ちも込めたかったのでしょうか……。後ろ髪をひかれるように過去への回想や叙情的なロマンが絡まりつつ曲を閉じます。雨上がりのような澄み切ったなつかしい情緒が辺りを照らしていくのがとても印象的です。
 これはシューマンの素直な感性やデリカシーがいっぱいに詰まった音楽絵本と言ってもいいかもしれません。



魅力作にもかかわらず
録音には恵まれず

 シューマンが比較的晩年に作曲した魅力作なのですが、録音にはあまり恵まれていません。
 演奏で最初に感動を受けたのはクリストフ・エッシェンバッハ盤(グラモフォン)でした。とにかく一音一音に表情が変化するデリケートな音色と感性の深さにはため息が出ますし、タッチのみずみずしさに魅了されます。エッシェンバッハはシューマンの伝えたかったロマンチシズムをそのごとく伝えきった詩人なのかもしれません。
 しかし、ご紹介したセットCDではどういうわけか4曲のみの抜粋盤になっています。もちろん音楽としては決定的に物足りないし、残念な状況なのですが、とりあえず貴重な記録として(何とか再販してほしいですね……)とりあげたいと思います。

 シプリアン・カツァリス(テルデック)はすべてにおいてクリアーなタッチと明確な表現が特徴で、シューマンの幻想的なムードやロマンチシズムを味わいたいという人には向かないかもしれません。でも、多くの名盤が廃盤の状況の中で、こんなにストレートな表現にもかかわらず、曲の魅力を自然に伝える技量と音楽性はやはり大したものです。





2016年7月2日土曜日

デューラー 『芝草』







草花に宿る
強い生命のエネルギー

 デューラーの『芝草』は有名な水彩画ですが、一般的によくある植物画とはちょっと違います。

 何が違うのかと言えば、線のタッチや、構図の取り方、色彩表現等が奇抜なわけではありません。ご覧の通り、表現方法は至ってシンプルですし、グイグイと正攻法で推した描画好きにはたまらないアカデミックの頂点とも言うべき絵なのです。

 かといって、シャルダンやドガの花の絵のように見て美しいわけではありません……。しかし、特別なことをしていないはずのに小宇宙を想わせるような存在感は圧倒的ですし、私たちに向かってそれぞれの草花が何かを語りかけてくるような気がします。 
 この絵を見ると草花は確かに呼吸をしていて、程度の差こそあれ人間のように様々な感情を持っているのではないかと思えてくるから不思議ですね……。 

 『芝草』はデューラーの明確で強い表現意図が感じられる絵です。それはおそらく草花に宿る強い生命のエネルギーや神秘を表現することだったのでしょう。それこそ一本一本の草花に神経が行き届き、血が通うその姿は、まさしく生命のエネルギーを放射するかのようで、私たちの心を掻き立ててやまないのです!



2016年6月26日日曜日

ポール・マザースキー  『ハリーとトント』










ロードムービーの傑作

 こういう映画って、撮れそうでなかなか撮れないのではないのでしょうか?
 仮に内容がネタバレしたとしても、この映画の良さは見ないことにはわからないでしょう。

 妻に先立たれ、ニューヨークのアパートで愛猫トントと暮らす年金暮らしのハリーが、区画整理で立ち退きを命ぜられたことから始まる様々な人々との出会いや交流を描いたロードムービーです。

 この映画のタイトルからすると猫のトントが主役級の扱いなのかと思ってしまいかねません。でも決してそうではなく、トントはハリーの思いがけない動向を左右する重要なキーパーソン(キーキャット?)になっているのです。
 たとえば娘のいるシカゴに向かう時、飛行機の手荷物検査がハリーには耐えられず、飛行機を断念してバスに乗り込みますが、バスの中でもハプニングが起きてしまい結局は途中で降りるようになってしまいます。でもこのことが様々な人との出会いを呼ぶことになるのですが……。

 成功の要因は一にも二にもハリーを演じるアート・カーニーの巧さでしょう。大らかで、決して上目づかいにものを言ったり、人を否定することなどしない。あくまでも人の話をよく聞き、忠告を素直に受け入れ、場を和ませる人柄と言ったら……。家族や出会った人々とのやりとりからそれがしみじみと伝わってくるのです。
 配役の設定もあるかもしれませんが、とにかくいい味を出しています。少しも気負ったところがなく、あくまでも自然体の演技なのです。できればこんなふうに年をとりたいものですね……。


シリアスな現実を
ユーモアとキャラクターの
魅力で包み込む

 この映画が制作された1970年代当時のアメリカはベトナム戦争で疲弊し、若者たちは心の行き場を失いドラッグに溺れる等、すべてにおいて自信を失った時代でした。
そのような時代を反映するエピソードもちらほらと交えながらも、ハリーからはそれを包み込む人間の大きさと大人の心のゆとりを感じるのです。

 はっとするような美しい場面も随所に現れます。
 たとえば、車を運転しているときに、ひとりごとのように出てくる亡き妻への想いやそれを見つめるトントや優しく包むピアノの調べ……。
 また、数十年ぶりに昔の恋人に会うために訪れた老人ホームで、時間のギャップを埋めるかのように二人で踊るダンスシーン……。いずれも切なさや優しさが込みあげてきて、時が止まったような感じさえする印象的なシーンです。

 シリアスな現実をユーモアとキャラクターの魅力のオブラートで包み込んだ愛すべき作品と言えるでしょう。


2016年6月16日木曜日

バッハ パルティータ第5番ト長調 BWV829















父親、教育者としての
愛に満ちた眼差し

 バッハは誰もが大作曲家として一目置く存在ですが、演奏家としても超一流で鍵盤楽器のスペシャリスト(当時としてはチェンバロがオルガンなのでしょう)、ヴィルトゥオーソとして名を馳せていたそうです。当然、鍵盤楽器のための作品は多く、平均律クラヴィーア曲集やゴルトベルク変奏曲といった有名曲以外にも数多くの名曲が存在します。イギリス組曲、フランス組曲、イタリア協奏曲、インヴェンションとシンフォニア、6つのパルティータはその代表格と言えるでしょう。

 私はバッハのクラヴィーア曲をさほど聴かないのですが、例外的に一曲だけ疲れた時によく耳を傾ける曲があります。それがパルティータ第5番です。
 ここに聴くバッハの良さは一言で言えば、柔和で優しさに満ちていることでしょう。しかも愛らしくきらきらと無垢な輝きを放っているところが何とも言えず魅力的なのです。

 無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータで厳しく突き放すような精神性の深みを表現したのとはかなり異質な世界です。これはバッハの父親としての優しさ、教育者としての愛に満ちた眼差しがそうさせているのかもしれませんね……。

 特に素晴らしいのは4曲目のサラバンドでしょう。主題にこれといった特徴こそありませんが、力の抜けきった柔和な旋律が次第に深遠な世界を構築していきます。主題が少しずつ形を変えて登場するたびに、様々な感情が交錯しつつ昇華されていく展開は本当に見事です。

 続く第5曲のテンポ・ディ・ミヌエッタは可愛らしい音の戯れが魅力的ですが、その一音一音に何と豊かな愛に満ちたメッセージが込められていることでしょう……。
 リズミカルで透明な詩情あふれるパスピエも、輝かしく晴れやかなフィナーレのジーグも魅力いっぱいです。


普遍的な魅力を持つ
ピアノの名盤

 この作品の演奏は当然、ピアノかチェンバロのどちらを選ぶかということになるのですが、私は普遍的な意味合いも含めて圧倒的にピアノをお勧めします。風雅があり格調高いのはチェンバロかもしれませんが、表現の幅やより繊細な感情表現が可能なのはピアノではないかと思いますので……。ですからここではピアノ盤のみの推薦ということになってしまいます。チェンバロファンの方、どうか悪しからず! 

 さて、第一にお勧めしたいのはエリック・ハイドシェックのピアノによる演奏です。
 パルティータ第5番は最初の3曲が後半の4曲に比べてやや魅力に乏しい嫌いがあるのですが、ハイドシェックの巧みな演奏はそのような欠点をも忘れさせてくれます。
 まず第3曲のサラバンドの音が何と柔らかく美しいこと! 何気なく気分を変えて弾かれたテーマが無限の余韻と豊かなニュアンスを醸し出してくれます。絶妙なピアノのタッチに加えて、センスあふれる造型やテンポ、リズムがこの曲をバロック音楽の枠や堅苦しさから解放しています。純粋にピアノ作品としての魅力を伝えてくれる演奏と言えるでしょう。

 クラウディオ・アラウの録音(フィリップス)は晩年のアラウの心境がそのごとくに反映された名演です! 中でもサラバンドが言葉には尽くせないほどに素晴らしいですね…。遅めのテンポから繰り広げられる木訥な音は明らかに流麗とか格調高いという言葉とは無縁ですが、テンポやリズム、造型のような音楽上の制約やスタイルが空しく感じられるほど、その表現は心の深奥に迫ってきます。テンポ・ディ・ミヌエッタも飾らない表現だからこそ、より無垢なメッセージとして伝わってくるのかもしれません!



2016年6月8日水曜日

ヘンデル オラトリオ「テオドーラ」






















ストーリー同様に
不遇な運命を辿る

 皆様はヘンデルの晩年のオラトリオ『テオドーラ」をご存知でしょうか?
 『テオドーラ」と言ってもおそらく「馴染みがない」、「聴いたことがない」という方が圧倒的に多いのではないでしょうか。  確かにストーリーはクリスチャンが迫害を受けて殉教の道を辿るという悲劇的な内容ですし、一般的にはハッピーエンドで終わるオラトリオの常識を覆した作品ということもあって、何とも言えない深刻なムードが漂います。それは一般的になるはずがありませんね………。 実際、初演当時はあまりにも重苦しい内容だという噂が広まって、劇場は閑古鳥が鳴いていたといいます。

 それでは、さっそく全体の大まかなあらすじをあげてみましょう。「時は4世紀、ローマ帝国の支配下にあったシリアの首都アンティオキアが舞台です。ローマの総督ヴァレンスは皇帝ディオクレティアヌス(キリスト教徒に大迫害を行ったことで有名な人物)の誕生日を祝うために、すべての市民にローマの神々へ捧げ物をするように命じます。
 
 しかし、敬虔なキリスト教徒のテオドーラだけは最後まで捧げ物や異教への改宗を拒絶するのでした。結局テオドーラは捕らえられ、彼女には「ローマの男たちの相手をしよ」という屈辱的な刑が宣告されるようになります。テオドーラに密かに想いを寄せ、キリスト教に改宗したローマの士官ディデュムスは友人の伝で牢獄に忍び込み、彼女と衣装を取り替えて逃がしてあげます。その後、テオドーラはディデュムスが処刑されると聞いて、彼の元に戻る決心をするのでした。二人は最後まで信仰を貫き死の道を選ぶのでした…」



驚くべき感性の深さ!
ヘンデル晩年の傑作

 このオラトリオが日本で公演されることは、まず皆無に等しいのですが、ヨーロッパやアメリカでの公演は決して珍しくなく、むしろ個性的な演出や劇的な内容で根強い人気があったりするのです。もちろん、演出に個性的な面白さがあったとしても、肝心の音楽や台本、そして原作に魅力がなければ、どうしようもありません。

 その肝心の音楽だけをとれば、これは稀代の名作と言っていいでしょう!!……。またロバート・ボイルが書いた原作もなかなかの傑作です。

 ヘンデルが作ったオラトリオの中では異色の作品なのですが、不思議と暗く重苦しい気持ちにはなりません。これは円熟した作曲技法の冴えもあるのでしょうが、何よりヘンデルらしい求心力のある明解な音楽づくりに加えて、思慮深く崇高な精神が音楽の中で無理なく共存しているからでしょう。

 特に各幕のポイントに置かれた合唱がどれもこれも素晴らしく、いずれも最高の聴き所を演出してくれます。メリハリのある楽曲と各声部が豊かに溶け合うハーモニーはさぞかし劇場や舞台で聴けば感動的なのではないでしょうか!
 たとえば、第二幕最後の合唱”He saw the lovely youth, death's early prey” は失意と絶望の中にあっても希望と安らぎがさざ波のように広がっていく心境を見事に謳っています!

 アリアも揃って情緒があり、特にテオドーラのアリア""Angels, ever bright and fair"は大らかな叙情性と美しい余韻が最高ですし、第二幕後半のテオドーラとディデュムスのデュエット"To thee, thou glorious son of worth"" もこの世のものとは思えないような悲しみをこらえた美しさが胸に染みます。

 とにかく地味な作品なのですが、音楽は一瞬たりとも間延びしたり、冗長になることはありません。しかも、それぞれのシーンに応じて多様な変化を与えたり、崇高なメッセージを加えるなど…本質を鋭く見つめるヘンデルの眼差しは見事です!



決定的な名盤こそないが
意欲的なクリスティ、アーノンクール盤

 演奏は数々ありますが、これは凄い!と言えるような名盤は現時点ではありません。それだけ演奏が困難を極めるということなのでしょう……。

 今のところ最も安心して聴けるのはクリスティ指揮レザール・フロリンサン(エラート)でしょう。合唱の声部のキメの細かさや透明感のあるハーモニーが心地良いし、何よりクリスティの指揮がツボにはまっているため、それぞれのシーンが重々しくならず聴き疲れがしません。
 ソリストではテオドーラのソフィー・ダヌマンが美しく潤いのある声で華があり、全体にわたって癒やしを与えてくれます。


 アーノンクール盤は歌手たちが切々と訴えるように歌っているのが特徴で、特にテオドーラのロバータ・アレクサンダーは高潔な表情や心からの表現が大変心打ちますが、人によっては切々とした感情の吐露がうっとうしく感じてしまうかもしれません。これはアーノンクールの指揮にも言えることで、曲の本質を極限まで表現しようとしているためでやむを得ないことなのでしょう……。

 マクリーシュ指揮ガブリエルコンソート&プレイヤーズ{アルヒーフ)は合唱、指揮、ソリストたちのアリア等すべてにわたって理想的で、実に音楽的に優れています!演奏や歌唱に大きなうねりや個性的なテンポ、リズムがないので、『テオドーラ』をこれから聴きたい方にはうってつけかもしれません。




2016年5月30日月曜日

パウル・クレー 『パルナッソスへ』









音楽的感性を
心の動きに高める

 かつて音楽を絵のモチーフにしたり、色彩のハーモニーを音楽になぞらえて絵を描いた画家がいました。
 カンディンスキー、デュフィ、ホイッスラーはいずれも音楽的な感性で創作した画家と言っていいでしょう。

 ただし、カンディンスキーは音楽的なイメージを抽象的な視覚効果として表現した人ですし、デュフィは音楽の醸し出すイメージを色彩と形で表現し、ホイッスラーは色彩と形の音楽的調和に美を見いだそうとした人でした。

 そのような人たちに対して、パウル・クレーの絵は一種独特の個性を持っていたのでした。クレーの両親はともに音楽家で、自身も小さいときからヴァイオリンに親しむなど、音楽に満ち溢れた環境に身を置いていたようです。また絵や文学にも大変造詣が深く、バウハウスでも教鞭をとったりと、あらゆる面で芸術的感性に秀でた人だったようですね。

 クレーも前述の画家同様に音楽的な発想で絵を描いた人でした。ただし、カンディンスキーやデュフィらと決定的に違うところがあります。それは音楽的なイメージを目に見えるように表現することが目的なのではなく、音楽的な発想や展開・生成を創作の材料として心の動きを伝えることが彼のモットーだったのです。
 たとえばそれは共鳴、信頼、愛情、悠久な時、安定等のように様々なメッセージを喚起したり、人間の内面の世界を照らし出そうとしていたのでした。 



リズムや階調が織り成す
神秘の様相

 クレーの代表作『パルナッソスへ』も音楽的なインスピレーションと調和を主軸に描かれた作品として有名です。絵の上部に位置するのが、ギリシャ神話で言う音楽と詩の神アポロンとミューズの居住地であるパルナッソス山だそうです。

 この絵を見て驚くことがあります。それは幾重にも描かれた様々な色彩の層やそれから構成されるグラデーションが何と見事に互いを引き立てあって美しい調和を生み出しているではないですか!
 それは音楽で言うト短調かもしれないし、ト長調かもしれない……。また半音階下の嬰へ短調かもしれない。まるで様々な音階とハーモニーが絶妙な組み合わせで成り立っているように色彩や形、リズムや階調が織り成す神秘的な様相に心打たれるのです!

 全体を貫く色彩の温かさと点描の矩形が形作る奥行き感はこの絵に独特の世界感を与えていることはもちろんですし、様々な要素が溶け合った素晴らしさがご理解いただけるのではないでしょうか! 



ピュアで温かい絵

 一般的にクレーの絵は抽象絵画として位置づけされますが、抽象絵画にありがちな冷たさや距離感がありません。それは彼の音楽的な感性やデリカシーが絵に投影されていることもあげられるのでしょうが、一番大きいのは豊かな精神性と絵に対する純粋無垢な心に尽きるのではないでしょうか。

 クレーの絵はピュアで透明感にあふれており、気高く飾り気がない表現が何のわだかまりもなく私たちの心に入ってくるのでしょう。
 晩年はナチスドイツの不当な扱いに苦しんだり、病気に冒されたり……と決して恵まれたものではありませんでした。しかし、クレーの絵は今も悩める多くの人の心の友であり、静かに微笑みかけるように私たちに語りかけてくるのです。




2016年5月20日金曜日

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン ハイドン「天地創造」





ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2016より






ダニエル・ロイスの
真骨頂ふたたび!

 今やゴールデンウイーク恒例のクラシック音楽イベントとなったラフォル・ジュルネオ・ジャポン! 今回のプログラムの目玉の一つが5月4日のハイドンのオラトリオ「天地創造」でした。
 公演が20時45分からというのに、国際フォーラムの大会場Aホールには沢山のお客様が詰めかけているではありませんか……。きっとゴールデンウィーク中というくつろいだ雰囲気と一流アーティストの共演によるプログラムの関心の高さや信じられないほどのリーズナブルな価格(S席で3000円)が後押ししているのでしょう。

 さて天地創造といえば。旧約聖書の創世記を題材にした音楽のスペクタクル劇という考え方が一部では定着しているようです。もちろん劇的で華やかな部分がないわけではありませんが、かといってエンターテイメント系の音楽というにはあまりにも無理があります。このオラトリオの醍醐味は愛おしく優しいアリアの魅力を味わうことであったり、神への喜びと感謝に満ちた嬉しくて仕方のない子供のような純粋な気持ちを共有するところだと思うのです。

 指揮者のダニエル・ロイスは声楽に対してとても造詣が深く、ローザンヌ声楽アンサンヴルと組んだ昨年のラフォル・ジュルネオ・ジャポンでもバッハのミサ曲ト短調やヘンデルのディキシット・ドミヌスですっきりとした造型と美しいハーモニーでエキサイティングな名演奏を披露してくれました。
 今回の『天地創造』はハイドン晩年の大作だけあって、さらに期待に胸が膨らもうというものです!


二部からフィナーレにかけて
稀にみる完成度の高い名演となる

 序曲は混沌とした創造の過程を表す抽象的な主題が綿々と続くため、一度聴いただけでは本質をなかなか理解出来ません。それだけにここは指揮者にとってどのようにアプローチするか腕の見せ所なのです。
 ロイスの指揮は音楽の本質をしっかりつかんでいるものの、楽器の鳴らし方がちょっと大人しかったのか、響きがホールに充満せず密度に欠ける嫌いがありました。創造の情景を想起させる肝心なところだけに、これだけはちょっと残念でしたね……。

 でもテノールのレチタティーボが始まると俄然ハイドンの音楽が冴え渡り、魅力が伝わってくるのを感じました。リュシー・シャルタン(ソプラノ)、ファビオ・トゥルンピ (テノール)、アンドレ・モルシュ (バリトン)の3人のソリストたちは強烈な個性はないものの、終始歌心にあふれていて、ハイドンの愉悦感が出ていたのがとても良かったです。特に第三部ソプラノとバリトンのデュエットは甘く陶酔的な調べが絶品でした!

 要所要所に入る合唱もヴィブラートや誇張を省いたハーモニーが美しく、透明感を基調にしつつ歌声が無理なくブレンドされた素晴らしいものでした。たとえ雄渾なフーガの部分での合唱も力づくの熱唱を繰り広げるのではなく、それぞれのシーンに応じた色彩のトーンの変化で多彩な表情を生み出しているのです。

 またロイスの指揮は二部あたりから水を得た魚のように自在にオーケストラを操るようになり、シンフォニア・ヴァルソヴィアの楽員たちもそれに応え様々な魅惑の響きを轟かせていましたね! 響きはますます結晶化され、ソリストたちとの呼吸もピッタリで、次第に音楽を聴く喜びで心が満たされていることに気づかされました。 
 言うなればオラトリオは指揮者をはじめ、歌手、コーラス、オーケストラのキャストの共同作業だし、心が一つに溶け合えば素晴らしい響きとなって伝わってくることを今さらながら感じさせていただきました。