2013年6月8日土曜日

忘れられないアーティストたち1  カール・リヒター

 

















強い求心力を持つバッハ演奏

 現在バッハ演奏が一つの過渡期を迎えているように思えてなりません……。
 1980年から2000年頃までのバッハ演奏はオリジナル楽器演奏の百花繚乱の時代でした。オリジナル楽器の演奏は1980年から90年代にピークを迎えたのですが、今はかつてのような輝きを失いかけているように思うのです。
 当時はアーノンクール、ガーディナー、レオンハルト、クイケン、ブリュッヘン、ゲーベル、ピノックらの出現が新しいバッハ演奏時代の幕開けを感じさせるのに充分だったのでした。透明感のある弦の響き、旋律線のくっきりと浮かびあがる楽しさ、スタイリッシュな造型等、まるで手埃にまみれた西洋音楽を綺麗に洗い落とした爽快さや新鮮さがあったのです。

 そのような古楽系のアーティスト全盛時代にリヒターの演奏スタイルは「もう古い」とか「厳しすぎて聴くのに疲れる」という声をよく耳にしたものです。でも、リヒターの演奏はもう古いと断定してもよかったのでしょうか?
 今改めてリヒターの演奏を聴くと、その求心力の強い確信に満ちたバッハが愛おしくて仕方ないのです。

 私がリヒターの演奏に最初に出会ったのはブランデンブルグ協奏曲の第2番(アルヒーフ)でしたが、この出会いは衝撃的でした。なにせ、バッハ演奏に対する価値観がこのときからすっかり変わってしまったのですから……。
 それまではカラヤンの指揮する演奏を格式があって美しい演奏だと思っていました。ところが、リヒターの指揮する2番は最初から違っていたのです。 冒頭に出てくるトランペットの朗々とした存在感のある響き、速めのリズムで輝きを放つように展開される充実した音楽……。気がついたらすっかりこの2番の虜になっていたのです! あの時ほど、「この違いは一体何だろう!」と痛感させられたことはありませんでした。


バッハへの深い愛情と畏敬の念

 リヒターはバッハ演奏のスペシャリストとしての位置づけがよくされるようです。改めて言うまでもなく、彼はバッハ演奏に全生涯を捧げた激烈な人生でした。特に1950年代後半から1960年代にかけては厳しく清冽な演奏が多く、音楽に対して一切妥協しないリヒターの一途な精神が強く反映されているのです。
 現在の指揮者たちとリヒターとの大きな違いはバッハへの深い愛情と畏敬の念ではないのでしょうか。特に声楽曲とカンタータはそのことを強く感じさせます。

 リヒターはバッハの作品の中でも、声楽曲(宗教曲)については大変なこだわりを持っていました。中でもカンタータ集の録音はやや地味なジャンルでありながら、他に比肩するものがないくらい高い境地にあったことは紛れもない事実でしょう。彫りの深い表現、あいまいさのない毅然とした合唱、宗教性と気品の高さが相まった崇高な雰囲気、バッハの精神性を歪みなく伝えようとする誠実な態度等、どれをとっても「なぜリヒターがカンタータを録音するのか」という必然性がいやというほど伝わってくるのです!

 そのリヒターが指揮したバッハの最高傑作は、1958年のミュンヘン・ヘラクレスザールで録音されたマタイ受難曲(アルヒーフ)に尽きます。「マタイ」はバッハの宗教性や芸術的な感性が高度な次元で結晶化した傑作ですが、リヒターの演奏はバッハの魂が脈々と語りかけるような驚くべき名演奏と言っていいでしょう。中でもミュンヘンバッハ合唱団の清楚で素直な歌唱は大きな魅力です。
実はミュンヘンバッハ合唱団の団員たちもリヒター自らがドイツ各地に足を運んでスカウトしたり募集したメンバーが軸になって構成されていました。そのような一から育てあげた手作りの味わいや温もりがこの録音からも聴きとることが出来ます。

 あくまでもプロ的な慣れや安定やバランス感覚といった要素を嫌ったリヒターですから、当然受難曲のような作品においては歌手たちも初々しい感動や哀感を絡ませ、一期一会のような名唱を繰り広げているのです!
 

聖堂のような凛とした佇まい

 エルンスト・ヘフリガーやフィッシャー・ディースカウ、マリア・シュターダー、ヘルタ・テッパー、キート・エンゲン……、とリヒターの宗教曲やカンタータの演奏で重要なパートを歌う歌手たちはほぼ毎回同じメンバーでした。気心がよく通じるメンバーで演奏することはリヒターの表現を忠実に反映させる上では必要なことだったのでしょう。
 彼らが口を揃えて言うのは、「リヒターには特別な雰囲気があった」と言うことでした。それが即ち「聖堂のような凛とした佇まい」ということだったのでしょう。

 バッハばかりが取りだたされるリヒターですが、もちろん他の作曲家の録音にも名演奏があります。その代表格がヘンデルということになるでしょう。オラトリオ「メサイア」、「サムソン」、オペラ「ジュリオ・チェザーレ」のような大作の録音も行い、それぞれに充実した演奏を残していますが、何と言っても素晴らしいのは「合奏協奏曲作品6」です。中でも作品6の第5番、9番あたりの剛毅な迫力、研ぎ澄まされた感性はこの作品のスタンダードと言っても良く、誰もが目を見張る名演奏と言えるでしょう。

 バッハの演奏で瞬く間に世界の檜舞台に立ったリヒターですが、もしリヒターがあと20年、いや10年だけでも長く生きていてくれれば、音楽地図は現在とはかなり違ったものになっていたことでしょう……。おそらくヘンデルのオラトリオの演奏やハイドンの交響曲、オラトリオ、ベートーヴェンの交響曲、モーツァルトの交響曲とレパートリーも拡げ、大いに楽しませてくれたに違いありません。

 古楽全盛の昨今、バッハの演奏はずいぶんと身近なものになってきました。しかし、「今なぜその曲を演奏するのか」という必然性が希薄なアーティストもいる中でリヒターの芸術に対するポリシーは高潔で傑出したものでした。バッハの音楽の魂の源流を追い続けたリヒターの演奏は今後も多くの人の心に生き続けることは確かでしょう…。



2013年6月3日月曜日

クリント・イーストウッド 「ミリオンダラー・ベイビー」








ハリウッドの常識に染まらない映画

 2004年の映画、「ミリオンダラー・ベイビー」はここ数年間に見たハリウッド映画の中で文句なしに最高の映画でした。でも公開当時、アメリカ国内での反応はマチマチだったようです。興行収入をどれだけ叩き出すかが作品の価値と言われ、映画館動員数が絶対条件とも言われるハリウッドでこの映画は少々異質な映画だったのです……。
 昔からハリウッド映画産業とも言われ、商業路線をひた走りしてきたハリウッドですが、近年は明らかに芸術性やメッセージ性とは無縁な映画が氾濫するようになったのは確かなようです。何とも行く末を案じるしかない淋しい状況ですが、それでも稀に傑作がポーンと現れたりするのもハリウッドのハリウッド所以たるところでしょうか……。


ボクシングの師弟関係を超えた絆

 その稀にみる傑作の一つが「ミリオンダラー・ベイビー」であることは間違いありません! 注目は監督と劇中の名トレーナー、フランキー役を兼任するクリント・イーストウッドの存在でしょう。クリント・イーストウッドは言うまでもなく映画「ダーティハリー」で一世を風靡した俳優ですが、最近は活動の多くを監督業に割いています。それにしてもこの映画での細かい感情表現や深い人物描写はなかなか他に例を見ないもので、イーストウッドの成熟した力量に改めて驚かされるのです。
 映画は女子プロボクサーのマギー(ヒラリー・スワンク)と二人三脚で試合に臨むトレーナー、フランキー(クリント・イーストウッド)の話なのですが、決して女子プロボクサーのサクセスストーリーを描いたスポーツものではありません。実はよく似た境遇を辿ってきた(共に家族の愛に飢えていた…)二人が実の親子以上の絆を持つようになる人間ドラマなのです。つまり、心に深い傷を負った二人が同じ目的を持って練習や試合に臨むうちに師弟関係を超えた深い絆が生まれてきたということなのでしょう。


家族の愛に恵まれないマギー

 映画の中で特に印象的なシーンがあります。それはマギーがチャンピオンになり、長年の夢だった家を家族のために買ってあげたのですが、喜ばれるどころか「あなたの当然の義務!」のように吐き捨てられてしまいます。マギーにはまったく関心を向けないのに、そのくせボクシングのファイトマネーを要求してくる家族に、ついに彼女は見切りを付けてしまったのでした。
 ちょうどその頃、何気なくマギーが車の窓越しに外を眺めると、隣の車の中で親子が無邪気に戯れている様子が目に飛びこんできます。母親に甘え、愛嬌振りまきながらいろんな話をする子ども。その屈託のない笑顔……。どこにでも見られるあたりまえの光景なのに、マギーにとってはそれがあまりにも遠く叶わぬ夢であることに愕然とするのです。幸せそうな家族の姿を見ながら、心の行き場を失ってしまったマギーの失望感が痛いほど伝わってくる忘れられないシーンです。
 マギーは億万長者になりたかったわけでも、名声を得たかったわけでもなく、ただ家族にふり向いて欲しいだけだった……。家族の絆を感じたかっただけなのでしょう。ここにこの映画の深い闇があったのです。


深く考えさせられる衝撃のラスト

 チャンピオンの座に辿り着いたマギーですが、それ以降も快進撃を続けます。しかし、ある日フェアプレイを逸脱するボクサーとの対戦で不慮の事故に遭い、半身不随になってしまいます。回復する見込みもなく、もはやボクシングが出来なくなってしまったマギーは生きる望みを失ってしまい、フランキーに何度も「死なせてほしい」と懇願するようになります。このあたりから映画は暗い影に覆われていくのですが、懸命に最善の方法を見いだそうとするフランキーの姿に救われる気がします…。
 キリスト教会や障害者の団体から衝撃のラストについて否定的な意見が相次いだということですが、この映画の場合は決して形で見るべきではないと思います。二人の固い絆が導き出した結果がたまたまそういうものだった……ということに尽きると言っていいのかもしれません。
 
 この映画に大きく貢献しているヒラリー・スワンク、クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマンの地に足がついた演技も見事で、時間の長さも忘れ映画に引き込まれてしまいます。とにかく久し振りに人間の深い内面の世界を描き、考えさせられたハリウッド映画でした。





2013年5月29日水曜日

アングル 「グラン・オダリスク」










新時代の幕開けを告げるメッセージ性



 アングルは稀に見るリアリズムの画家であり、筆舌に尽くし難いデッサンの達人でした。とにかく彼はデッサンの申し子のような人で、デッサンだけでも絵が充分に成立するような目茶苦茶なうまさを誇っていたのです。
 この「グラン・オダリスク」は感動というより、作品の完成度の高さに驚かされる作品です。よく見れば女性の背中の異常な長さに気がつくことでしょう。もちろんデッサンの達人アングルがこのことに気づいていなかったわけはありません。デフォルメ効果で形態の美しさと優雅さ、視覚的な強さを引き出そうとしたのだと思います。

 この絵ではその場の雰囲気を表出するというより徹底した様式美に貫かれて描かれています。特にラファエロの聖母像によく似た顔立ちの女性やアカデミックなタッチや色彩が独特の雰囲気を醸しだしているのです……。あえて人間的な感情や情緒の表現を拒絶し、古典的な様式美を確立しているようにも見えますね。

 「グラン・オダリスク」は、横たわる裸婦を扱った絵画の中でも、最も美しいポーズを刻印した記念碑的作品のひとつと言っていいかもしれません。
 当然、構図の見事さもあげないわけにはいかないでしょう。人体の右隣にあるカーテンも流線形の美しいフォルムをさらに引き立たせるポイントになっています。すべてのモチーフや家具は人体を引き立たせる脇役として重要な材料の一部になっているのです。

 ピカソを始めとするキュビズムの画家たちにも多大な影響をもたらした言われるアングルの絵。ラファエロや古典派の絵画の伝統を継承するため研究を重ねてきたアカデミックな巨匠の絵は、その一方で新時代の幕開けを告げるメッセージ性にも富んでいたのです!




2013年5月23日木曜日

ベートーヴェン  交響曲第3番変ホ長調『英雄』作品55











飛躍的な変化を遂げた交響曲

 ベートーヴェンは交響曲の作曲に並々ならぬ意欲と情熱を注いでいました。それは残された9曲の圧倒的な充実度からも充分にうかがえます! その傑作揃いの交響曲の大きな転機になったのは第2番なのですが、飛躍的な変化(革命的といっていいのかもしれません…)を遂げたのは間違いなく交響曲第3番「英雄」でしょう。これはベートーヴェンというだけでなく、西洋音楽の歴史から見ても決定的な足跡と存在感を示した音楽と言ってもいいと思います。
 何が飛躍的なのかと言えば…、それは主題の巨大な構造や疾風怒濤のような不屈のエネルギーがそれまでの一般的な音楽的常識を超えてしまったことでしょう! 特に第一楽章で次々と繰り出される主題は精神的な高揚感を伴いつつ、さまざまな形に変化しながら、かつてないドラマチックな世界を展開するのです。もはやメロディがどうだとか、音は綺麗に響くだろうかということは「英雄」では二の次三の次にさえなっているのです。ベートーヴェン自身にとって「英雄交響曲」は過去と決別し、新しい人生を出発する大転換の時だったのです。

 ここではハイドン、モーツァルトに代表される古典的様式の音楽的美感、バランスの良さといったさまざまな定義を完全に覆す自由な音楽が生み出されているのです。
 このことは曲の形式にも表われていて通常ならば第二楽章でアンダンテかアダージョにするところを異例の葬送行進曲を採用、第三楽章でもトリオあたりが妥当なところをスケルツォを採用するなど音楽のタブーを次々と破ったところがさすがベートーヴェン!というところでしょうか。「美しいためなら破り得ない法則は何一つない」といったベートーヴェンの信念がここでも生きてくるわけです。


ドラマチックでスケール雄大!交響曲の金字塔

 第一楽章で冒頭のトゥッティによる二度の強奏から英雄の出現を示すテーマが奏されると次第に勇壮な世界が浮かび上がってきます。このとき音楽は点ではなく線となってみるみるうちに巨大なエネルギーを放出していきます。ひとつひとつの和音がこんなに深い意味を持って語りかけてくることがあったでしょうか……。勇壮な響きとそれを打ち消すような激しい心の葛藤が幾度も現れドラマチックな展開が続きますが、緊張の糸はまったく緩むことなく終結部を迎えます。聴けば聴くほどに構成の見事さに驚き、それぞれの主題の有機的なつながりの素晴らしさにため息が出るばかりです!

 第二楽章に葬送行進曲を置いたのはベートーヴェンにとっても大きな挑戦だったことでしょう。一般的には葬送曲によって感傷的になったり、曲のイメージや流れを損なってしまうのでしょうが、ベートーヴェンの場合は音楽に真摯な祈りがあり展開の必然性があるためにまったく違和感がありません! こんなに崇高で深い慟哭に満ちた趣きの音楽を作ることはベートーヴェン以外はかなり困難なのではないでしょうか……。チェロやコントラバスの多用、フーガの挿入、前衛的な不協和音の多用など、これまでの音楽的常識を打ち破る規格外の音楽を作ったのです。後の作品、ミサ・ソレムニスのミゼレーレを彷彿とさせるような心に染みいる深い哀しみが印象的です。

 第三楽章スケルツォは重厚な葬送行進曲の後だけに弾むようなリズムと晴朗な響きがとても心地よいですね!まるで「天馬空を行く」かのような奥行きがあって引き締まった楽想が心のウヤムヤをすべて消し去るかのようです。

 第四楽章の変奏曲も音楽の常識からいって交響曲に採用されることは例がなく、しかもフィナーレに置かれるのは当然この作品が初めてです。テーマは自身が作曲した「プロメテウスの創造物」から引用されているのですが、それだけに変奏曲をフィナーレに置いたのは深い意味があっての事というのは当然でしょう。このフィナーレにはもはや迷いがありません。試練を克服した喜びと深い魂の安らぎを心ゆくまで謳歌するもので、太陽の光のように放出される音楽のパワーは輝かしく比類がありません!


貴重なカール・シューリヒトの演奏会録音

 演奏のほうに目を向けると、名作だけあってCDには事欠きません。ただし、いい演奏は大体がモノーラルからステレオ初期に偏っており、もっともっと現役の指揮者にも頑張ってほしいな……というのが率直な印象です。(こういう作品でいい演奏が出てこないとクラシック音楽界も盛り上がらないと思うのですが…)
 演奏のみを考慮すれば、昔から名盤の誉れ高いフルトヴェングラー指揮ウイーンフィルのスタジオ録音(1952年、EMI)がやはりナンバーワンでしょう。とにかく響きが深いし、壮大なスケールや曲のメリハリ、自然な息づかい、楽器の存在感等どれをとっても「英雄交響曲」の求めているイメージにぴったりという感じです! ひとつだけ残念なのはモノーラルのために響きが浅くなって聴こえるところが多々あることでしょうか。

 1963年のライブ録音ですが、カール・シューリヒトがフランス国立放送管弦楽団を指揮した演奏(Altus)もフルトヴェングラーに勝るとも劣らないような素晴らしい名演奏を成し遂げています。特に録音が素晴らしいですね! 1963年のライブというと誰もが音質には期待しないと思うのですが、この録音は破格の素晴らしさです! しかもステレオ録音! 音も生々しくまるで会場で聴いているかのような錯覚にとらわれます。そして何と言ってもシューリヒトの解釈が素晴らしいですね。
 
 即興演奏で力を発揮するシューリヒトの面目躍如といったところです。鋼のような強靱な響きとストレートな進行に見せる味わい深さ!フルトヴェングラーのような重厚な響きこそありませんが、ベートーヴェンそのものという意味深い響きが続出し曲を堪能させてくれます。シューリヒトがステレオで「英雄」を残してくれたことと、当日の演奏を素晴らしい音質で残してくれた録音スタッフの功績に、ただただ感謝の言葉以外ありません……。



2013年5月17日金曜日

メンデルスゾーン 劇音楽「真夏の夜の夢」








 メンデルスゾーンは情景描写に因む音楽を作曲したら天下一品でした。同じようにメルヘンの世界を作曲しても右に出る者がいないほどの生粋のロマンティストでした。
 たとえば陶酔するようなメロディやロマンの香りにあふれたヴァイオリン協奏曲、叙情的な無言歌などはそのような傾向をふんだんに持った作品と言っていいでしょう。同じように劇付随音楽「真夏の夜の夢」もそのような流れを汲んだ傑作です。特に「真夏の夜の夢」ではファンタジックな要素に加え、無垢な感性や優雅な気品もミックスされて輝くような夢の世界を満喫できるのです。

 クラシック音楽は数々あれど、この「真夏の夜の夢」のようにメルヘンの世界が生き生きと美しく描かれたことはなかったのではないでしょうか。メンデルスゾーンの無垢な感性と卓抜な音楽センス、音楽や文学への深い造詣があってこそ可能になったと言わざるを得ないでしょう!

 「真夏の夜の夢」は序曲のみ18歳の時に作曲されていますが、才気に富んでいますし色彩豊かな響きはすぐにメルヘンチックな世界に誘ってくれます。そしてスケルツォに入るとメンデルスゾーンの個性が全開になり、神秘的で彩り豊かな楽器の響きや表情がますますメルヘンチックな雰囲気を引き立たせていくのです。
 その後の妖精の歌のお茶目なメロディも心に残りますし、夜想曲のデリカシーに満ちたロマンチックな美しさも一度聴いたら忘れられません。間奏曲や結婚行進曲ももちろん魅力的です。

 誰もが知っているポピュラーな作品ですが、決して飽きられることがないのはとにかく全編に散りばめられた音楽がオリジナリティがあるし、何よりメンデルスゾーンの叡智の目が光っているからなのでしょう…。「真夏の夜の夢」はメンデルスゾーンの個性が最高に発揮された贅沢な名曲と言えるでしょう!

演奏はクレンペラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したスタジオ録音(EMI)が非常に内容豊かな名演です。どこをとってもゆったりしたテンポで細部を彫琢しており、その表現が曲にぴったりで格調高く美しいのです!




2013年5月9日木曜日

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭 2013  コルボ指揮フォーレ・レクイエム 



穏やかな時間が流れるコルボのフォーレ・レクイエム


Ensemble Vocal de Lausanne


 ゴールデンウイークの風物詩としてすっかり定着した感があるラフォルジュルネオ・ジャポンですが、今年も東京・国際フォーラムの4日のプログラムに行ってきました!今回のお目当てはミシェル・コルボ指揮のシンフォニア・ヴァルソヴィアとローザンヌ声楽アンサンブルによるフォーレのレクイエムです。

 コルボと言えばフォーレのレクイエムで何度も名演を披露してきた人ですが、日本にも何度か来日しレクイエムの名演奏を披露しています。演奏の中で何と言っても忘れられないのはエラートに録音した1972年のベルン交響楽団とサン=ピエール=オ=リアン・ドゥ・ビュール聖歌隊とによる清楚でたおやかな情感を打ち出した演奏でしょう。

 当日魅せられたのは最初のデュリュフレの「グレゴリオ聖歌による4つのモテット」でした。この作品はCDで何度か聴いていますが、短いけれど心に響く名曲という印象があります。1曲目の「慈しみと愛あるところに」が始まった途端、まるで時間が止まったのでは……と錯覚するような至福の時間に満たされたのでした。
 穏やかな表情と癒しの心に満ちたこの旋律が雑多な想いを静かに洗い流してくれるようです。癒しの響きとはまさにこのことをいうのでしょう。よく溶けあった柔らかなハーモニーがとても心地よく響きます! その後の曲も神秘的で至純なハーモニーに酔わされるばかりでした……。

 メインのフォーレのレクイエムですが、この作品についてはもはや説明は不要でしょう。CDでよく聴き比べをするうちに随分とこの曲に対する審美眼が身についたように思います。
 バリトンはジャン=リュック・ウォーブルですが、美声で音楽的センスのある人だと思います。しかし当日はあまり調子がよくなかったのか声の伸びや抑揚がもうひとつで、あまり心に響いてこなかったのが残念でした。おそらく1972年のフッテンロッハーの穏やかですべてを包み込むような味わい深い名唱と比べてしまうからなのでしょう……。

 それに対しソプラノのシルヴィ・ヴェルメイユは澄んだ声が美しく、声に強い主張があるわけではないのですが、涼やかな風のようでこの曲にはぴったりでした。ローザンヌ声楽アンサンブルの歌声もこの曲を充分に知り尽くした安定感とメンバーひとりひとりが心を通わせた精緻でまろやかな響きが印象的でした。
 コルボの指揮は衰えを知らず、アンサンブルの確かさや楽器からコクのある響きを引き出す音楽性は素晴らしいです。今後も宗教曲、声楽曲を中心に素晴らしい録音をドンドン出してほしいですね!




2013年5月4日土曜日

モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595








 皆さんはモーツァルトの音楽で一番肩の力が抜けた作品と言えば何を想い出されるでしょうか?  おそらくその最右翼としてあげられるのが晩年のクラリネット協奏曲やピアノ協奏曲27番K595だと思います。
 この2曲は表向きは明るい曲調なので喜びにあふれた快活な曲と思われがちですが、実際はとても喜びを表現したとは言い難い作品です。ひとことで言えば「諦観の音楽」と言っていいのでしょう…。モーツァルトの音楽の中では異色の作品といってもいいかもしれません。

 特にピアノ協奏曲27番の透明な詩情はそれまでのピアノ協奏曲とは明らかに一線を画するものです。 融通無碍の境地と言っていいのかどうかわかりませんが、「もはやこの世に何の未練もありませんよ……」と言わんばかりに展開されるモーツァルトの清澄な音楽がとても印象的です!

 晩年のモーツァルトは多額の借金を抱え、生活は哀れなくらいに困窮を極めていたといいます。それでもいざ作曲するとなるとこんな凄い作品を生み出してしまうのですから、改めて天才で根っからの音楽家なのだなと思いますね…。

 かつてのピアノ協奏曲で聴かれた無垢で色彩感溢れるモーツァルトの姿はもはやここにはありません。最期の年に作曲されたK.595はモーツァルトの魂が地上と天界の間をさまよっていたのでは…。そう想わせるほど神々しい光を放ち、透明な詩情が全編を覆っているのです。

 第1楽章の出だしはいつもの輝かしいピアノ協奏曲の始まりとは明らかに異質のものです。翳りに満ちた表情で静かに始まる独特の雰囲気が何とも言えません。その後の展開部でも情熱や気迫、流麗とは無縁な静かな諦観が曲を一貫します。じわじわと押し寄せる枯れた味わいが静かな晩秋の情緒を想わるではありませんか……。

 第2楽章もあらゆる呪縛から解き放たれた瑞々しい詩情が最高ですね……。ピアノに絡む木管が相変わらず美しく、瞑想や可憐な微笑みが浮かんでくるようです。

 幼い頃の美しい記憶が走馬灯のように心地よいリズムとなって展開される第3楽章も深く胸に染みます。いつしか音楽は何気ない戯れから無限の高みへと舞い上がっていくのです……。

 演奏はステレオ初期に録音されたバックハウスのピアノとベーム指揮ウイーンフィル(Decca)の演奏が今もってベストと言っていいでしょう。モーツァルトとしては形にこだわらない異色の作品が結果としてはバックハウスやベームにぴったりのスタイルとなったのに違いありません。無理に誇張したりすることなく、音楽は自然な流れの中でこの曲から最高に深い意味を伝えてくれます。